今と今。今と未来。

「うまくいかないから面白い。」



からだの中を電気が走るような強い言葉だ。



だが果たしてそうだろうか? なんかかっこよすぎないか?



今うまくいかないシリアスを、「面白い」などと言える人間が果たして、どれくらいいるのだろう。


もしかしたら、エネルギーや時間が潤沢に貯蔵されている若者であれば、1つや2つの挫折など鼻で笑い飛ばして、突き進むことが出来るのかもしれない。
彼らならばきっと、うまくいかないから面白い!と威風堂々と叫び、次に向かっていけるに違いない。


だが、資源は有限である。
貯蔵されていた時間やエネルギーや根拠のない自信は、リアルという時間経過の中で、1つ。また1つ。と消耗され、みるみると失われていく。そして切り札の全てが枯渇したとき、ぼくらは途方に暮れるのである。


すべてを出し尽くしたのに、結局なにひとつ、うまくいかなかった、と。


しかし、そこからが本当の戦いなのだと思う。
それでも血を吐くように次なる切り札をひねり出して打ち込んでいくのだ.......。




うまくいかないという現実を受け止め、うまくいくように転げまわっているとき、ぼくたちは、ただ「必死」なのであって、とても面白いとは言いがたい状態である。


面白いと思えるのは、奇跡的に絶望の峠を抜けきれた後に、自分がたどった道を振り返ったほんの一瞬だけなのではないか......?


僕の違和感はここにあった。


「うまくいかないから面白い」のではない。正しくは、


「うまくいかないから未来が面白くなる」


あるいは


「今うまくいかないことが未来を彩る」


なのではないか。



うまくいかない今と、面白いと感じる今はおなじ現在には共存しえないのである。
うまくいかない今と、面白いと感じる未来が共存しえるのである。ぼくはそう思う。



かっこいい言葉は、シンプルで美しい反面、削られているから解釈の余地をたくさんもち、聞き手はいつも都合のいい箇所ばかり読み込んでしまうようだ。


だが、かっこいい言葉は、むしろ都合の悪い箇所を読み取らねばならないと思うのである。□