築地の思い出

 

 

「カシ行くか?」

 

小学生のころ、父は僕をカシに連れて行きたがった。
魚を仕入れる場所を幼い息子に見せておきたかったのかもしれない。
社会勉強をさせて将来、店を継がせたいと思っていたのかもしれない。
「カシ」が「河岸」であることを知ったのはそれからだいぶ経った後だった。
幼い頃は意味も分からず、カシカシと言っていたような気がする。

父は、ときおり生き物好きの僕のために、食材である沢蟹やザリガニを観賞用に買って来てくれることがあった。
小学校から帰ると、沢蟹やザリガニが洗面器の中で元気に動くさまをみて、とても喜んだ思い出がある。
行きたいと言い出したのは、実は僕の方だったかもしれない。
いろいろな生き物がいる河岸をペットショップのように思っていたのかもしれない。
河岸には魚屋に魚を売る店が並ぶ。つまり魚屋の開店前には河岸の商売は終わっている。つまり朝がとても早い。
朝の4時ごろ父に起こされて、眠い目をこすって連れて行ってもらった。河岸へ向かう電車内にはほとんど客はいない。
初めて河岸を訪れたその日、父が一人で仕入れに行っているときは、決して一匹では売ってくれなかったと聞いていた食用蛙を、僕の姿を見るや否やガンコ店主は「坊主、何匹欲しい」と売ってくれた。
それから1年ほど、巨大な水槽に2匹の食用蛙を飼った。巨大な蛙だった。
本来は、足の部分を食べるようで、モモに厚い筋肉がついていた。水槽を洗うときにバケツに移して重石でもしておかないと、あっというまに遠くに飛んで行ってしまう。僕が飼いたいと言っていたにもかかわらず、水槽の掃除やら餌やりの多くを父がやってくれていた。
1年ほどたったころ、父は言った。
「世田谷八幡の池に逃がしてきたぞ。」
僕も蛙に飽きてしまって、父も面倒を見切れなくなったようだった。
なんだか僕のせいで、突然の切ないお別れになったことを今もよく覚えている。

こんなこともあった。
霞が関駅で地下鉄サリン事件が起きた朝、父は築地に仕入れに行っていた。
大学に行く前のテレビでニュースを見て真っ青になって、寿司清に電話したら父が出た。父の仕入れの時間が終わった後に、あの凄惨な事件が発生したのだった。
築地にはそんな思い出もある。


1年前に盛り土問題や汚染問題が発覚して大騒ぎとなった豊洲への移転を決行して、世界的な「TSUKIJI」ブランドを捨てることには、今なお疑問を感じている。
築地は僕にとって父との思い出の場所でもあるのだった。
できることなら自分が生きている間にはこんな終わり方を見たくはなかった。

それでも、せめて築地場外市場は残ったみたいだから、あのころを思い出しながら、また近いうちに築地に遊びに行ってみたいと考えている。□