「京都大原三千院
恋につかれた女がひとり
結城に塩瀬の素描の帯が
池の水面にゆれていた
京都 大原 三千院
恋につかれた女がひとり」
高校時代の修学旅行は京都だった。
クラスメートの女子グループが教室で歌っていたのを今でも覚えている。
僕らの世代からはだいぶ古い曲である。今のようにネットなんてない時代に、彼女らはいったいどこでこの曲を知ったのだろう?
修学旅行では、結局大原には行けなかった。
あのころはただ親元を離れて友人らとばか騒ぎができることに浮かれて、京都という歴史のつもる美しい場所になんら主体的なアプローチをすることもなく、ただ楽しく、ひたすら楽しく、裏返せば、それだけで過ぎ去ってしまった。
就職してからすぐのころに、父と母を京都に招待して初めて大原を巡った。
修学旅行でなしえなかった、もう一つの京都の楽しさ=歴史的価値にしっかり向き合いたいと思ったのである。
だけど、その大原から10年以上もの歳月が流れた昨年に三千院を訪れてみると、ほとんどの記憶が消え去っていた。
あのころは、ようやく仕事をはじめて、父や母を京都に招待できたことに、ただ舞い上がっていただけで、何ら仏閣など見てはいなかったのだろう。
仕事をはじめ、絵を描くようになってから、世界を観る目は、はっきりとかわった。
文化財としての造形や歴史的価値などをじっくり見聞しながら観る楽しみに目覚めたようだった。
あのころは、わーい。わーい。と走り回るだけで、その実、ちっともなにも観ていなかった自分を、今取り返しているのだと思っている。
この週末、そんな大原に、三たび、アトリエスケッチ合宿のロケーションハンティングで向かうことになった。
三千院は昨年観ていたので、この度のロケハンでは来迎院、寂光院を訪れた。
寂光院は、三千院、来迎院とは反対の方角にあり、またちょっと地味な印象もあったが、そこへと向かう田や山、集落の広がる風景は、まさに、永六輔が「女ひとり」で描いた大原の里であり、むしろ、こちらの方が表の大原なのではないか、と思った。
恋につかれた女はいなかったが、仕事につかれたばかな男がいた(ぼくです)。
空が広い。
寂光院へは15~20分ほどのちょっとした道のりであるが、恋につかれた女を想い、しっとりと歩くことができる。ぽつりぽつりと集落の中にある、カフェやらお土産ものの店が目に心地よい。
スケッチのロケハンというものは、交通が不便だったり、期待するほど描けるポイントがなかったり、行ってみると、思ったほどの収穫がないことの方が多い。
アトリエスタッフなど、限られた数名だけで行くのであれば、つぶしはきくが、研究生やらを連れていくという企画の場合、きっちりポイントを見極めておかないと連れてはいけないのである。
そういう点で、大原エリアはしっかり描くことができる場所だった。とくに、寂光院を中心としたエリアの方がしっかり描けることがわかった。これは今回の大きな収穫であった。(つづく)