努力のベクトル

 

「努力」というパワーや時間をどこに注ぐべきか。

 

今少し立ち止まって考えておきたい。

例えば、
「自分は気が小さく、人とうまくコミュニケーションが取れない」
という人が、
「気を大きくしてコミュニケーションを取れるようにする」
という努力には、本当に意味があるのだろうか。

努力によって出来るようになる人は居る。
もともとそういう素養があったけど、やったことがなかったとかチャンスがなかったというような人であれば。

 

だけど、性格的にどうしてもできないということに、パワーや時間を注いでも、やっぱり結局できないことはできないのだと思う。
上司や周りの人々に「がんばれ」と激励されて、できないとも言えず、
さらに、自分でも生まれ変わりたいなんて思っていたりもしたら、
なんだか流れに押されるように「努力しよう」なんて言ってしまって、
結局何年たっても変われはしない。

 

そういうことを、もっともっと早い段階から気づいて、
出来ないことに注ぐ努力は早々にやめる方がいいと思うのです。
そして、自分の良いところをもっと伸ばす方向に努力のベクトルを向けるべきだと思うのです。
「性格を変えよう」というところに関する努力は、たぶんほとんどできない。

 

というところまで書いて、以前も同じようなことを書いていたことを想い出した。

 

 

さらに、例えば、絵を描くというところに注力すると決めたとしたその先にも、また無駄な努力があるように思う。

写実を描くにはどうしてもスキルがないのに、写実を追い続けるとか。

マティスの絵とか見ていたら、早々に写実とかを切り捨てて、色を色として使うという絵を描くことに努力のベクトルを切り替えている。

そういう舵の切り方が必要なのではないか。

自分にもっともマッチした、自分が努力に値するモチーフであったり、世界というのは絶対にあるんだけど、それに気付けずに、なんか無駄なところに拘ってパワーと時間を使い続けているケースが多い。(自分に言っている)

 

今自分が努力すべきところがどこであるのか。それが今考えるべきことだ。□