ずっと考え続けている。

 

「ずっと考え続けている」

 

仕事を終え、PCを閉じたあとも、頭の片隅に常に業務のことがあり、考え続けているという先輩。
かっこいいと思う。
自分もそうありたいと思う。
だが自分にはそれが難しい。
業務は自分にとっては「ただ生きるための手段」であって、他のもっと有効で楽しい手段で生きられるのであれば、そちらにシフトしたいと思っているのである。

だけど、自分は、対し絵画制作については「ずっと考え続けている」。
絵画を始めてからの20年間。ずっと。嘘偽りもなく、考え続けていると言える。
もっというと、絵画を始める前は、イラストレーションを勉強したりしていたし、その前は漫画を描いたりしていたが、おなじ「描く」という行為について丸めれば、そのころから「ずっとずっと考え続けている」のである。

いい絵とはなにか。

なぜあの絵を自分は良いと思ったのか。

なぜ自分はあの絵を描けないのか。

どのようにしたらいい絵が描けるか。

.......考え、実践し、反省し、また考え、また実践し、反省する。というようなことをずっと続けている。
ブログに書いている「制作日記」は一部であり、手元で記録しているノート等のたぐいはかなりの量になる。
本当に、ずっと考えていると思う。

だけど改めて、では同じように業務について、業務後にも考え続けられるかといえば、それができない。
がんばればできるかもしれないが、おそらく数日で体力切れを起こすだろう。
この数十年できなかったし、それが今になって急にできるようになるとは思えない。

 

それができるかどうかは、要するに「好きかどうか」なのだと思う。

「好き」は頭で生み出せるものではない。

仏像を好きな自分がどれだけ言葉を使って説いても、興味がない人は興味がないのである。単に知らないだけで、好きになる素養がある人には伝わることがあるかもしれないが、それ以外の人に好きになってもらうということは、ほぼ無理だろう。

「嫌い、苦手なことを好きになる努力をしている」
出来ている人はそういうが、それは素養がある人の言葉なのだろうと思う。

 

自分にとって好きなこと(絵画)をやっていてもサラリーがもらえる社会がないということには、ちょっとした妬みがある。

自分が取り組む仕事での、評価・承認が欲しいと思うのは、きっと自分が取り組んできた仕事が社会的に、客観的に、正しかった。と証明したいからなのだろう。

偉くなりたいと思ったことはないが、かつて先輩画家と飲んでいたときに彼が「賞が欲しい」とこぼしていた気持ちが、今になって少しわかる気がする。□