制作日記

  

三沢厚彦氏の生み出すANIMALSシリーズである。

 

「動物の形には方向性がある。それが束になったときに、重層的なグルーブを生む

 

f:id:massy:20201226153207j:plain

f:id:massy:20201226160533j:plain

 

「クマは山のようであり、森の主であり、物語の主人公であり、我々の日常を部屋の片隅から眺めている。全く持って多様性に満ちている

 

クマという動物に強く引き付けられ、繰り返し描き、彫刻にする。何度も何度も。
部屋一室が全てクマである。
だが、どれも同じかと思えば、ポーズやしぐさ、表情などそれぞれに違うにおいや表現が感じられ、少しも退屈をしない。ずっと見ていたいと思うし、願わくば持ち帰りたいような衝動すら感じる。
同じモチーフに、アーチストとして追い続けたいもの、容易につかまらないもの、表現の強い動機を見つけ、ライフワークとする。それがアーチストとしての願いである。
自分にとっては「集落」というモチーフがあるが、これだけ強い動機を持ち、展開するだけの強いものにはなっていない。そんなモチーフに出会えた氏に羨望を感じる。

f:id:massy:20201117203432j:plain

f:id:massy:20201228151148j:plain

 

5メートルクラスに及ぶ油彩の大作「春の祭典」とその絵から出てたように絵画の前に配置されるクマや像、鹿、ウサギなどの動物たち。

東寺に「立体曼荼羅」があり、即成院に「立体極楽浄土」があるのならば、ここには「立体動物曼荼羅がある。

平面だけでは表現しきれない、等身大の動物たちが立体となって絵から飛び出してきて、同じ空間で同じ空気を吸うという体験をさせる表現に、寺院でも美術館でも動物園でも感じられない、ほっこりとした新しいUXがあったように思う。

 

f:id:massy:20201226160355j:plain

 

 

「誰でも知っているモチーフで、そんなに難しく考えなくても、そのものをキッチリ作ればいいではないかと。」

何かの表現に向かうとき、はじめは見た通りそのまま描いて楽しんでいるあどけない時代があるのだが、表現を続けていくにつれて、楽しさが第三者にうまく伝わらないもどかしさにしびれを切らして、欲望で表現をゆがめていく。
集落を描き、その美しさを表現したつもりでも、一向にその楽しさ、美しさが伝わらず、ペン画にしてみたり、クジラを描いてみたり、家を実際の形から遠ざけてみたり、大きく書いてみたり。そのうち当初のあどけない楽しさや嬉しさが薄れて、周りに阿るように表現がぶれつづける。
「そのものをキッチリ作ればいい」
やっぱりここに戻らなくてはいけないのだと再認識させられる。
一度や二度表現がうまくいかなくても、やっぱり自分の足元を掘り続けないといけない。それがとても遠いように感じても一攫千金はない。自分を信じ、ぶれず、足元を愚鈍に掘り続ける。それしかない。それが一番の近道なのだ。□