制作日記(二人展まであと65日)

 

なぜ、バラックに惹かれるのか。

 

集落の中に突然現れた、さびれたトタンのバラックに美しさを感じる。

バラックを建てた人は、別にアートを作ろうと思ったわけではない。

道具をしまっておいたり、物置にしたり、なんらかの生活目的で作っただけだ。

素材だって、風雨に強い素材としてトタンを選んだだけで、それが錆びることによってさまざまな色合いに変わって美しく見えたりすることを見据えて選んだなんてことは決してなかったはずだ。

建てたばかりはピカピカだったバラックも、数か月、数年と風雨にさらされていくうちに、人の手を介した人工物でありながらも、自然と作られたシミや錆で、偶然のコラボレーションが実現してアートと化す。

自分は、それを美しいと感じ、その感動と同等のものをキャンバスの上に定着させようとする。作品を見た人に、自分と同等の感動が届くように。

だけど、手を介した途端、あの感動はするりと抜け落ちて、似ても似つかないものが画面上に現れる。何度やっても再現ができない。

ただそれを写し取ろうとするだけでは作品にはならない。

単調で、自分の感じた面白さが何一つ画面に定着しない。

 

どうしたら定着するのだろうか。

 

バラック以外にいろいろなモチーフを引っ張ってきて装飾をしてみた。

すると、装飾物が目立ち、バラックの美しさが後ろに下がってしまう。

主役はバラックだ。

脇役である装飾物がステージの真ん中に出てはいけない。

そもそも装飾物なんて必要なのか。

バラックの美しさを表現するのに、バラック以外の装飾でごまかそうとする自分が、なにか正々堂々とした戦いを放棄したようで、背徳的な気持ちにすらなる。

 

装飾物を持ってくること全てを否定はしない。

それ自体にモチーフとしての魅力はあるから。

邪魔にならず、違和感がなく、静かにバラックを引き立て、自然に見えるものであれば。でもそんなものは、どうしても浮かんでこない。

そんなことを考え、試行錯誤しているうちに20年が過ぎた。

 

見たままが一番美しかったものを、わざわざ加工して壊して、絵という表現におきかえようとする行為すら、見苦しくもあり、あざとくもあり、醜いと感じる。

 

じゃあ、描くのをやめたらいいのか。といってやめることはできない。

これまでの全ての人生を否定してしまうことになるから。

もう引き返せないところまで来ている。

 

ばかばかしい。だけど見切りをつけることもできない。

 

普通の人ならば、まったく理解も共感もできない、もやもやを、ずうっと続けている。

これからも続けていくのだろう。

なにか必ずこの禅問答にも答えがあるはずなのだ。それを探し続ける。□