自分は、ぶれていたのではなかった。
全ては、1つの目的(ゴール)に向かうための「実験」だった。
1枚描くたびに「絵が変わった」と言われる。
「前回の絵でよかったのにまた変えてきた」
「ころころを表現を変えるな」
「もっと足元を掘り続けないと」
「変わった」という言葉はアーチストにとってはネガティブな評価だ。
まあ、ラーメン屋を始めた店主が、しんどいからラーメンはやめて、カレー屋にする。と店を変えて、またしばらくして、カレーはしんどいから、やっぱり天麩羅屋にする。というようなブレーメン(ぶれまくっている輩)に対する指摘なのだろう。
自分で決めた道をコロコロと変えるじゃない。という指摘は確かにごもっともだ。
そういう指摘を受けて、自分はぶれている。と自分でも思い込んでいたが、ここ最近になり、ちょっとした気づきがあった。
もしかしたら、彼らも自分も、全員間違えていたのではないか。
1枚1枚の絵の表層は、確かに違うものが描かれていたり、違う手段で描かれていたりしたのかもしれない。だが、いつでも自分は自分だし、自分が目指している表現は1つだったと思う。
そのときにできる1枚の中では、1つの実験を行っていて、1個の部品を手に入れていた。それが10年続き、10個の部品を手に入れた。
今、その10個の部品を目の前にある1枚の中に展開した。
今、目の前の1枚の中に、そんな手ごたえを感じている。
となると、1枚ごとに「変わった」とか「ぶれた」とかいうのは全くもって頓珍漢な指摘だったのではないか。そしてそれを自分がぶれていたとして受け入れていたことも、大いなる頓珍漢な思い込みだったのではないか。□