「さみしいなんて、思ったことすらない」
かつて、アトリエで一緒に描いている女の子に
「さみしいと感じたことありますか」ときかれたとき、
そう即答した記憶がある。
絵を描いたり、本を読んだり、映画を観たり。毎日が忙しすぎて、
さみしいか、なんて考える暇もない。考えたことすらなかった。
だけど、アトリエに年末の恒例の大掃除に参加ができない旨を伝えたとき、
「じゃあ恒例のアトリエ大掃除(とその後の忘年会)は、
お前の代わりに〇〇さんにお願いして回すから」
と伝えられた時「さみしい」と感じた。
要するに、
自分には代わりがいる。
別に自分などいなくても世界は回っている。
別に世界にとって自分は必須な存在ではなかった。
ということを突きつけられたとき、さみしい。という言葉が頭の中に生まれた。
(さみしいという以上に、憤りが大きかったが。でも憤っても仕方がない.....)
長い間、アートや表現活動にしがみついているのは、
「代わりないもの」を作りたいという思いが自分の心の底にあるからだと思う。
それができたら、自分は代わりのいない存在になれる。と信じているからだと思う。
ふだんは創作活動をすることで、しばらくの間は気持ちがはれているだが、しばらくすると、すぐに不安になる。
評価されるまではいかないとしても、観てもらったり、知ってもらったりしなかったら、無いのと同じである。
公募展に絵画を出品した時「お前の絵は雑草以下だ。生えてもいない」と先輩に酷評された。
それほど、自分の絵は存在感がない。知人が一生懸命探しても、展示されている多くの作品の中から、見つけ出してもらうことができなかったという。
気付いてもらわなくてはいけない、知ってもらわなくてはいけない。
そこまでたとりついて初めて自分の中の「さみしい」は、解消されることになるだろう。
つまり、俺は今までずっと「さみしかった」のだ。□