さみしい。ということについて その2

 

最近、近所で秋田犬を見かける。

 

通勤のとき、前方にどっしりと凛々しい大型のわんこが歩いているのをみつけたら、飼い主に声をかけずにいられない。

 

「秋田犬ですか」

 

「はい、名前は銀ちゃんです」

 

毎朝7時ごろがお散歩時間のようで、近所にある交番の前まで行ってから通勤、通学する人を見送ってくれている。

 

真ん中に顔がギュッと寄っている愛らしい表情。

大型でありながら、おとなしい犬柄で尻尾を振ってこちらをみてくる。

 

通勤時のほんの小さな時間だが、彼のそのなんとも愛らしいその表情を眺め、元気をもらったとき、ふと、犬は「さみしい」と感じることがあるのだろうか。と考える。

 

彼らは、ただ居るだけである。

それでも周りにいる人たちに、表現しがたい「愛らしさ」を噴出させている。

もう居てくれるだけでしあわせ。という存在だ。

 

たべて、散歩をして、眠る。

それだけで、人々に多大なる癒しを与えている。

 

犬も、犬の世界では、お友達に会いたいとか、散歩をしたいとか、自分はべつにいなくてもいい=寂しいという感情を持つのかもしれないが、犬を受け入れる我々は、彼らに「そんなことはない、いてくれてありがとう」という気持ちで接していて、感謝をしている。

彼らがさみしくないようにしてあげたいと思っている。

 

人も同じように生きられないものだろうか。

いるだけで周りはよろこんでくれているという存在であるなら、さみしいなんていうことを感じる必要はないのではないか。

人ならではの頭や感情がそのシンプルさをねじまげているだけなのかもしれない。

 

同じ生き物なんだから、犬のように、ただ生きてみたら、さみしい。なんて考える必要もないのかもしれない。□