やさしさとは。

よく「やさしい」といわれます。でもやさしいってなんだろう。


少し前に、知人がやっている芝居を見に行きました。
正直なところ、これまでの自分の経験や価値観から見て、芝居の質は高くはなかった。
というか、むしろ、怒鳴ったり叫んだり、若さや勢いだけで押しきる印象で、芝居になっていないと感じた。でも彼には「がんばって」としか伝えられなかった。


これはやさしいといえることなのだろうか。


本音であれば何でも言ってよいとは思わない。
でも、伝えないことが悪意となり、伝えてあげることがむしろ優しさとなることもあるのではないのだろうか。


発表した自分の絵について「まだまだ雑草です」と伝えたとき、先輩に「雑草?生えてもいない」と言い返されたことがある。今もはっきりそのことを覚えている。たぶんこれからの人生でも決して忘れることがない言葉だと思う。
目の前が真っ白になって、血液が沸騰したと記憶している。でもそのあとはとても冷静にその声を大衆のやさしさの声の代表として受け入れた。
ただやっているだけではなんら価値はない。それを価値として適当な褒め言葉を口にすることこそが「非情」だったりする。


失恋の未練に苦しむ者へ声をかけるとき、その未練を肯定する伝え方と、全てが終わったとばっさり切る荒療治の伝え方がある。はたして、どちらがやさしいのか。


近い将来、目を背けていても必ずやってきてしまう、つらい現実があるのであれば、手遅れになる前に、荒療治でも覚悟して受け入れるのがよいのかもしれない。


泥酔して建前も無く本音をずかずか言う先輩に激怒して、宴会をしらけさせてしまった。


割れてしまった卵は決してもとには戻せない。
わかっていてもいつか戻せるのではないか、とその奇跡にしがみつこうとしている自分。戻す手段があるとずっと信じている。
そこに「戻るわけねえだろ。卵は割れちまったんだ。」と容赦のない声がかかる。つらい現実である。世界が終わってしまったかのような破滅感と絶望感。とても感情をおさえることができない。


しかし、それこそがやさしさだったのかもしれないな。と今思います。


やさしくなりたい。でも、僕にはもう少し時間がかかりそうだ。□