やさしい嘘


「やさしい」ってなんだろう?

「やさしい」と言われることがあります。

「やさしそう」と言われることもあります。

「やさしくなかったな」と考えることも沢山あります。


大好きな山田洋次監督の映画のひとつに「武士の一分」があります。

藩主の毒見役をつとめる武士・三村新之丞は妻・加世と慎ましくも幸せに暮らしていたが、ある日毒見で、つぶ貝の毒にあたり失明をしてしまいます。
目が治らない新之丞は取り乱しますが、妻・加世の献身的な支えにより落ち着きを取り戻していきます。
ある晩、目の見えない新之丞は「そろそろ蛍の季節だな」と妻・加世に問いかけます。
加世は答えます「まだ少し早いようです(飛んではおりません)」と。
でも、実際には蛍はたくさん飛んでいるのでした。
蛍が飛んでいるという事実を伝えることで、もう蛍を見ることができない夫を落ち込ませないように、加世は、やさしい嘘をついたのでした。

嘘をつく、ということは多くの場合は許されないことです。
でも、ときには嘘をつくこと、本当のことを言わないことが人を救うことがあります。

そういう気持ちをもつことが「やさしさ」なのではないかと、僕は思うのです。


以前、職場の仲間と飲みに行ったとき、同僚が「俺の評価が上がらない。上司は俺を全然評価しない」と、さんざん上司の悪口を聞かされたことがありました。
あまりにも話が一方的だったので、僕はつい「それはお前の努力が足りないからだ」と言ってしまったことがありました。同僚はかんかんに怒って、ちょっとした口論になりかけてしまったことがありました。

あのときの僕は、嘘偽りのない事実を言っただけなのです。
だけど事実を言う必要はなかったな、と今、思うのです。

「君もなかなか評価されずに苦労しているなあ。俺もそうだよ。
 でも、もう少し僕らもがんばれるかもしれない。がんばっていこう」

そんな言葉でよかったのではないかと思うのです。


本当のことを全て言うことは、時には「美しさ」や「やさしさ」から離れて冷たい人間と見えてしまうことがあります。

ある失敗をして落ち込んだり怒っている人がいます。
その失敗は確かに彼自身のミスであり、落ち度なんだけど、そのことを事実として「それはお前がうかつだった」と指摘することは、やさしさではないと僕は考えます。
もちろん、事実を伝え、突き落とし反省させることを目的としたやさしさというものもあるとは思いますが、こちらは上手に伝えていかないと、ただの悪者になってしまうリスクがあります(少なくとも僕にはこのやり方はできないことがわかりました)。

嘘をつくことはできるだけ避けたいものです。

でも、嘘をつくのならば、せめて優しい嘘をつきたいものだと考えます。□