太陽

芸術や学問が、一部のリテラシーのある人間にだけ開かれている。


そういうものであっていいのだろうか。


いいわけがない。


これがずっと自分のコンプレックスになっている。



社会一般的な仕事に携わる人間にとって、わかる人にだけわかればいい。という発想は傲慢極まりないと思う。そんな仕事は社会的に破綻している。


わざわざ難しい言葉を選び、一般人との距離を置き、接点を断絶することで、孤高に立ったと思いこんでいる人間がたくさんいるようだ。
商業性を捨て去ることで、社会性を断絶することで開き直り、いっそう閉じた世界に身を投じていくようになる。


そんなものは全部「なんちゃって」でしかない。


そんな非建設的な見栄や虚栄は、この世界から金輪際一切消え去ってしまうがいい。



例えば音楽であれば、芸術性をもちながらしっかりとした社会的な商業性を完備している。



世界のだれもが耳にした瞬間、良いか悪いかを判断でき、それでいてしっかりとした芸術性を満たしている。



ここにはリテラシーなんてものは存在しない。


そして、これこそが全てのものづくリストに対するあるべき姿の提示なのではないか。


サブカルチャーとして消費文化に位置付けられていた漫画であっても、例えば井上雄彦氏の「最後の漫画展」では、美術館を埋めつくす空間漫画の展示によって、サブカルチャーの漫画が、文化としても充分戦えるものであったことを立証し、その確たる存在意義を示してみせた。


このような事例が実在している以上、どの分野においても、誰にでも伝わるやり方があるはずであり、各分野の当事者たちは、その道筋を断絶してはならないと思う。


芸術であっても学問であっても、すべての人々に門は開かれていなくてはならないと思う。誰にも理解できないものに孤高をゆだねてはいけない。孤高ってそんな幼稚なものじゃない。


閉じた世界の人間と、閉じた世界の人間が合わさって、閉じた世界をバトンリレーする。そんなところに美学はない。クリエイティビティも生まれえない。


ものづくリストは、日陰に隠れてはいけないと思う。いつも日の当たる場所で健康でいなくてはならない。


それでも、隠れたいやつは勝手にしやがれ


僕は自らの閉じた世界を開いてくれる人間と出会って、こじ開けてもらう人生を選択する。


僕は、燦然と輝く太陽の下で生きる人生を選択する。□