会場に入った途端、目に真っ赤な空間が飛び込んできた。
赤い糸である。
巨大な空間のそこここに置かれた針金のボートから、無数の真っ赤な糸が紡がれ、天井までの空間を覆いつくしている。
現代美術家・塩田千春の空間美術である。
会場に入ると誰もが息をのみ、とっさにスマホを取り出し撮影を始める。
一瞬で観覧者を異世界にいざなう。
圧倒的な空間美術である。
入口からすっかりノックアウトされた我々は次の部屋から、こんな空間を生み出した塩田千春のここにたどり着くまでの過程をたどっていくことになる。
学生時代に描いた1枚の油絵をもってして、絵画制作を卒業する。
絵を描くよりも、自分自身が絵になる。という発想に至り、自身の体を使ったインスタレーションへと表現手段をシフトさせていく。
素っ裸になって土手を転げ落ちたり、浴室で泥水をかぶり続けるなど、一見、恐ろしさや不気味さを感じる表現が続く。
表現というものの源は、ただの狂気なのかもしれない。
見る人にとってはそんな狂気を異常や不気味にに感じるだろう。
表現をすること自体が、すでに普通ではないのだが、それでも続けていくのである。
見返りがなくても、狂っていると思われても、孤立してでも続けていく、表現のための表現活動。
多くの人は、そんなことを続けられはしない。一度や二度なってみたとしても、いろいろな理由をもって次々にやめていくのだろう。だが、それでも継続をしているうちに、それは社会的な評価につながっていき、さらにやがては、一般人の承認を得るまでに至るのである。
入口にいきなりあらわれた塩田千春の「赤い部屋」はそれまでの過酷で孤独な果てしもない表現の先にようやくたどり着いた、突き抜けた芸術なのだと感じた。
社会はいつも僕らをフィルタしている。多くのものは切り捨てられていく。
だけどそのフィルタにも落とされない稀有な人間が生き残り、誰も到達できない表現にたどり着くのである。
学生時代に早くも絵画表現に見切りをつけ、永い表現活動の果てに、自分にとって最適な表現手段である「糸」にたどり着いた塩田千春を見て、「自分にとっての最適な表現とは何か」を、今改めて考え直す機会となった。
本当に絵画表現が僕にとっての最適な表現手段なのだろうか。
今、改めて見つめなおしてみたい。□