李禹煥LeeUfan展

 

 

 

「???」

 

「?」

 

「??」

 

会場の中にいる多くの人の頭の上に「?」が見えていたような気がした。

そういう自分こそが「?」を浮かべていたからだ。

なんだこれは。

みんなは、わかる?

すぐとなりの人にそんな質問をしたいほどだった。

 

有り体に言えば

「石を置いただけ」

「木材を並べただけ」といった作品群である。

視覚的に目を強く引き付けるような印象の強い作品でもない。

たいへんシンプルである。

 

だが、深い。

 

ものともの。

 

ものと人。

 

ものがある。

それを人が空間に配置する。

それだけで、空間はゆらぎ、見る人になんらかのエフェクトを発している。

それを、浴びてみる。感じてみる。そして考えてみる。

 

これだけのシンプルな作品で、さあ、みんなで考えてみよう!と問いかけてくることには、数学的かつ哲学的で、突き放されたような気持になる。

鑑賞者の頭の上に「?」が浮かんでいるのは、その突き放し方が唐突だし、説明もないDRYさ、にもあるのだろう。

だけど、どこかにあたたかみもある。

 

LeeUfan氏の作品たちは、以前書いた「バタフライ活動」の一つなのだと受け取った。

作品はただ空間に存在するだけで、何かの信号を僕らに発信している。

 

それが何かを考えるのが、この展覧会の1つの目的である。

 

それが何かは今もまだわからない。でも何かを感じている。

 

 

 

展示の後半は、ペインティング作品がずらりと並んでいく。

表現手段が、ペインティングに変ったが、目的は前半と変わらない。

ペインティングが、空気を揺さぶる。それを感じる。ということだと思う。

 

だけど、1つ。

自分は、前半の石や木の作品を見ていたときの「空間そのものを感じて浴びる」というところに面白さを抱えて、そのままに後半に入り、ペインティング作品群に対峙したのだけど、面白さが一気にしぼんだような気がした。

石や木の作品が、空間そのものも作品の一部として取り込んでいるように作られていて、いろいろな角度から作品を眺めるという楽しさや面白さを満喫した後に、四角形のキャンバスの面に描かれた作品の、なんという狭さ。なんという不自由さ。と感じてしまったのである。

それは、自分がずっと取り組んでいる絵画という表現手段に、最近終焉を感じ始めていることも関係していると思う。

 

新美術館の隣で開催中の二紀展で、自分の作品をみたとき、正直ぱっとしなかった。

むしろ彫刻作品のほうが余程おもしろくて、今更ながら驚いてしまったのである。

 

以前、ゲルハルト・リヒターの絵画で、現代という時代に、平面で表現することの意味・意義を問う「ビルケナウ」を観たときから、「絵画という表現手段は、これほどまでやらないと、もはや人を楽しませたり、驚かせたりはできないのか」と愕然としてしまったのです。

それはLeeUfan氏の作品を観ても消えなかった。

 

ゆれる。

 

「表現」の手段を、絵画に限定している自分は、はたして自由なのか。

そんなことも、考えさせられてしまった。

そして、それは今も考え続けている。

どちらにせよ、脳みそをしずかに、それでいて強くゆさぶる展覧会である。□