悪口というのが苦手である。
誰かの悪口を聞いていると、まるで自分に言われているかのように聞こえてしまい、申し訳ない気持ちになる。
彼は、本当は僕自身を批判したいのだけど、直接は言えないから、誰か別の人の悪口を言うことで、僕のことを批判している。そんなふうに聞こえてしまう。
悪口の内容に共感することがあっても、一緒になって悪口を言うこともできない。
言ったとたん、孫悟空の緊箍児(きんこじ)のようなものが頭を締め付けて、こう語りかけてくるのである。「そういうお前こそ、どうなんだ」。
悪口を、聞くことも、言うことも、僕にはできない。
悪口をいう人は、僕に賛同を求めているから、僕も「そうですよね」と答えてあげたいが、そういったとたん、僕の頭についている、見えない緊箍児(きんこじ)が頭を締め付け、無理に作ったいびつな笑顔が更にゆがむ。それを見た彼は「つれないやつ」と冷めた目で僕を見返してくる。
そんなことで、悪口が聞こえる場からは、金輪際、一生涯、近づきたくないのだけど、逃げるほどにそういう輩が僕の周りに寄ってくるような気がしている。
悪口を言う人間は、自分の主観から見た相手の非常識な言動の否を認めさせ、謝らせたい、更生させたい。だけどそこに行きつくまでには、壮絶な戦いを伴うし、あわや自分にとっての生活基盤をゆるがしかねないから、悪口という代替手段で憂さを晴らすまでにとどめる。または、本当に戦うつもりがあるのなら、賛同者を集め、一対多で戦える体制を整える。
要は、彼は怒っているのである。
確かに怒られる方の側に、否があるのかもしれない。だけど僕は、怒っている側の人を見ると、怒られている相手よりも、むしろ怒っているその人に問題があるのではないかと疑ってしまう。
怒っている姿は醜態だと思う。あなたは人のことを怒るだけ完璧なのか、あなたは神か。と心の中で言い返している。そんな言い方を自分がされたらどう感じるのか、言っている内容そのものが自分にあてはまらないと言い切れるのか。そこまで考えたうえで、発言しているのだろうか。
言い切れる。考えている。という人ならば、まさに「神」なんだろうけど。
神であれば、世界中の誰もが味方のはずです。だけど少なくとも僕は彼のことを神とは思えないのです。
中島みゆきの名曲「Nobody is rigtht」が思い出されます。
誰もが「自分も、誰も、正しくない」という気持ちを持てていたら、世界はずっと平和なのかもしれないよなあ。□