お・も・て・な・し。

プロの料理人が作ったというわけでもない。

しかも手の込んだ料理というわけでもない。

それでも何故かとてつもなく美味しい料理がある。


プロのコンシェルジュが提供するというわけでもない。

むしろコンシェルジュがどんなものであるかも知らない。

それでも何故かひどく感激してしまうおもてなしがある。


サービスは、理屈ではない。生理なのだ。


サービスは、ときには定量化できない「情」が絡み、
発酵させ、プロですら実現できない奇跡的な成果を
生み出すことがある。


このたびの中国出張で、僕らが受けた「おもてなし」は、
後になってじわじわと心に沁みて、
受け取るばかりになってしまっていた自分を落ち込ませた。


日々の業務の多忙に溺れて、日本に出張した時の彼らの相手すら
まともにできなかった自分が、
今立場を変えて中国に出張してみれば、彼らは業務多忙であるにも
かかわらず、自らの時間を犠牲にしてでも、
「次は僕が!」「次は私が!」と連日我々をレストランや居酒屋で
歓待してくれたのだった。

しかもそれぞれの席で、彼らは自分たちのことを多くは語らず、
おいしい料理を提供し、話しやすい空間を提供することだけに
注力してくれていた。


日本人はおもてなしに長けている? 本当なのだろうか。

 

ドナルド・キーン氏がかつての日本人を見ていた目で、

今、僕らは中国人を見ているように感じる。

 

安心・安全・便利。

確かにそういったスローガンのもとに築きあげてきた日本の
サービスの質は高いのだろう。
だが、人間が本来もっている定量化できない「情」という発酵力を、
僕らはいつの間にか、どこかに置き忘れて来てしまったのではないか。
そして今、中国人はその「情」を主力として、おもてなしをしている。

 

理屈でつくられたおもてなしごときは、
生理でつくられたおもてなしには、微塵もかなわないのである。


頭で考える前に手を動かす、お客様第一主義。

そういう「情」を、僕は改めて見つめなおしたい。□