特集 バンド論。 No.001 サカナの泳ぐ植物園。 山口一郎にとってバンドとは何か | 山口一郎 | ほぼ日刊イトイ新聞
高倉健や渡哲也は、仕事の姿だけ見せることを徹底して、舞台裏を決して見せなかった。
対し、山口一郎は舞台裏をにおわせる。
作り手としての苦しみの片鱗を、主たる楽曲という仕事以外のところで見せてくる。そのチラリズムが好きだ。むしろ、それが彼の、サカナクションというバンドの個性のひとつにすらなっていると思う。
役者は、役になりきるために、役以外の姿を視聴者に見せないために、プライベートな姿を極力排除し、人前にさらさないようにするのかもしれない。
役者にかぎらず、ものづくりの作り手たるものは、作る姿をあまり人目にふれさせないようにするものが多い(ように思う)。
それは「作品」にすべてを込めているという表れであるともとれる。
自分も、描く姿を人に見せるのが嫌いである。あくまでも完成された作品だけを見てほしいし、作品だけが自分の分身となって勝手に語ってくれるのが理想だと思っている。だけど、ファンとして作り手を眺めるときは、その舞台裏を見たいと思ってしまう。
山口一郎の楽曲づくりは壮絶だ。
リリース締め切り直前に歌詞が出てこずに、苦しみ、悶絶している映像を見たことがある。
その姿が、楽曲の美しさに加えて、更に美しさを増すスパイスのように見えた。
天才は天才なんだというあきらめよりも、これだけのものを作れる人ですら、苦しんでいるという姿に、なにかほっとするのだ。
あるいは、自分も苦しみ抜けば、肩を並べられるかな、という希望にもつながるような気がするのです。
さらに、自分ではたどり着けない狂気の中にいる姿を見て、憧れのようなものも強く感じてしまう。
詩を伝える目的のために、メロディをつける。
バンドは、植物園。
すごい対談です。もはや、対談が作品のようにすら思う。□