分身

 

 

近しい人が亡くなるということが増えてきたように思う。

 

若いころは、どこか遠くにみえていた訃報が、歳を重ねてくると、ゆっくりと身近に迫ってきている。

 

絵を描き始めて20年になるから、当然それだけの時間の分、ぼくらは歳をとって、自分も周りの環境も変化している。そういったことが増えて来るのは仕方がないことだろう。

健康でゆっくりと歳を重ねることができる人であれば、周りもその「おだやかな変化」に合わせて準備をしたりもできるが、健康を壊したり、事故にあうなど、予想できない事態で「突然やってくる変化」には準備ができない。

 

近しい人が亡くなったと聞いた。

突然の訃報だった。

ご家族、当事者の間では1年以上前から分かっていたことらしいが、外野の我々にはその情報が伏せられていたようだ。

居てくれることが当たり前で、居てくれることを前提として、考えていたいろいろなことが、「一瞬で」全て不可能となった。全てが喪失された。

そういう体験を初めてした。

なんら情報がなかったので、まさに登っていた梯子が突然消えて、まっさかさまに転落するような気持だった。

 

彼(または彼女)と、これからのことを話す機会は永遠に無くなってしまった。

彼(または彼女)が作る新しい作品はもう見られない。

逆に自分が作った作品を彼(または彼女)に見てもらうことは永遠にかなわなくなってしまった。

 

彼(または彼女)が、自分の中に占めていた空間が突然解放され、穴があいた状態になる。だが、それを埋めるものがないことに途方に暮れる。

 

「形見」

 

という言葉が脳裏に浮かんだ。

生前に彼(または彼女)が残した形。それを彼(または彼女)の存在に見立てる。
そういうものが心に空いた穴を少しだけ埋めてくれるものなのかもしれない。
そんなものは、これまでどこか遠くの物語の世界にあるものかと思っていたが、今、それがリアルなものになった。

 

人の人生は高々80歳か90歳ていどのものだろう。

長いと思っていたその時間のいかに短いことか、と感じ始めている。

神様から、親から授かったこの体を活かして、何かを生み出し、世界を驚かせてみようなんて野心を燃やしていた時間はあっという間に流れて、そんなあてずっぽうのような大志は何も実現しないまま今に至る。もしかしたらこのまま土に戻って終わりかもしれない。そんな不安や諦めのような気持が、かつて燃え上がっていた野心を鎮火させようとしている。

人生とはなんだろう。

自分が生まれてきた理由は何だろう。

これまで何をしてきたのだろう。

これから何ができるだろう。

何が残せるだろう。

 

自分もいづれ死ぬだろう。そのとき、自分に成り代わるもの。自分の代わりとなって人々の心の片隅に生き続けるものを残したい。大きくなくてもいい。自分の身の丈にあった残すべき何か。それが残された人にとっての私の分身であってほしい。

 

人は自分に何を求めているか。

自分は人に何を残せるか。

自分は人に何を残したいか。

そういうことにこれからしっかり向き合って、生きていくべきだと思う。□