5分間、居酒屋。

 

「美味いものがある」と「美味いものがない」という横軸と、

「それを楽しむ時間がある」と「それを楽しむ時間がない」という縦軸。

.......で、4つの象限をつくったとき、

 

美味いものがあって、かつ、時間がある。というのが、間違いなく幸せの絶頂だと思うのだけど、

では、美味いものがあって、時間がない。というのは、不幸なのだろうか、と自問すると、それはそれで、幸せだと確信する。

ありあまるほどの時間があっても、美味しいものがなければ、それはひとつの不幸だと思う。勿論、時間も無く、美味しいものも無いのであるのは論外だ。

 

つまり、ぼくらにとって、「美味いものがある」ということさえ約束されていたら、たとえそれを、ゆっくり、じっくり味わう時間がなくても、幸せは十分に感じることができるということだ。

 

外出する時間も取れず、そもそもタイミングを見定めないとトイレにすら行けないという、昨今の自分の状況下では、食事の時間すら十分にとれない。

一口、二口食べては席を離れ、1時間戻ってこられないことも普通なのだが、それでもわずかなその一口、二口が、「美味しいもの」「美味しい時間」であったら、それがたとえ小さい時間であっても「美味しかったな」と、喜んでいる自分に気づいたのである。

 

突き詰めていけば、これは「5分間の居酒屋」でも十分楽しいのだ。とも言い換えることができる。

例えば、出張が終わって、帰りの新幹線を待つ新大阪駅で、生ビール一杯とおつまみを味わう5分間があったとしたら。それだけでも、十分しあわせを味わえるということである(そういった経験をわかる。と共感できる人も多いのではないか)。

 

無いのではなくて、有る。のである。

小さくても「有る」ということに、ここ最近、やたらと気づきをもらえているような気がする。

小さな時間の中にも、しあわせは転がっている。□