しあわせを考える。

 

しあわせとは何か?

 

自分は今しあわせか?

 

あなたは今しあわせか?

 

しあわせかと問われたとき、いつも「はて?」と考えてしまう。

何かが足りない、何かが埋まっていない、という気がして、

毎日のエネルギー全てをその物足りなさを埋めるためにつぎ込んでしまっている。

 

一度立ち止まって振り返ってみると、


ああ、もう十分だ。

自分はもうしあわせなのかもしれない。なんてことを確認できたりする。

 

ここ数年、神社で神様に祈ることはもう「無病息災」だけです。

「宝くじが当たりますように」だとか

「素敵なパートナーが見つかりますように」なんてのは、

健康や平和があってこその上になりたつものです。

当たり前が満たされている状態こそが、しあわせなのではないか。

でも実はそれがなかなか難しい。

当たり前が損なわれたとき、当たり前がいちばんしあわせだったのだと気づく。

 

「たいしたことないやつ」にはなりたくない。

ポンコツ」にはなりたくない。

なんてずっともがいていたけど、

「人間はたいしたことないやつが完成形」と聞いて、ほっとしたのです。

この言葉が無かったら、今も大した奴になろうと苦しみ続けていたと思うのです。

大した奴になんてなれるわけがないのに、なってやろうという終わりなき戦い。

この言葉が、その死のスパイラルに終止符を打ってくれた。

 

同じような感じで、しあわせを追いかけ続けてしまうデスマッチに、

「今がもうしあわせの完成形」なのだと、終止符をうつ。

それは「我唯足知」という言葉で表現されているのだけど、いつもいつの間にか忘れてしまい、また埋まっていないところばかりを見て、毎日やっきになってしまう。

 

では、当たり前=ありがたい=有り難い。と置き換えて口にしてみるのはどうか。

 

「健康と親友と衣食住」

 

と唱えてみる。

みんなある。もってる。充分、しあわせじゃないか。という具合に。

 

「歩いている」

 

「仕事がある」

 

「おいしく食べている」

 

・・・なんていう当たり前をあえてことばにしてみたらいいのかもしれない。

 

しあわせはかたちにはできないけど、ことばにはできるかもしれない。□