ザナドゥへの想い(2)

 

だが、本当に今、ザナドゥを遊ぶべきなのだろうか。

 

40年を経て、遊ぶ事が出来るようになった喜びは大きいが、ふと少し冷静にもなる。

 

40年近く封印されていた「我慢」「辛抱」「忍耐」「鬱憤」「渇き」は、当時のゲームに対して、脳内で圧倒的な神格化がされ、遊んでもいないのに「世界中でこれ以上のゲームは存在しない」くらいないびつな、圧倒的憧憬が完成されてしまっている。
(余談だが、それは、振られた女の子への圧倒的な究極美であったり、格闘技で言えば、「ヒクソン・グレイシーより強い霊長類は世界中どこを探してもいない」という究極美にも似ている)

それを今さら紐解いて、現実に引っぱり出すことには、ちょっとした恐れがある。
(余談だが、それは、失恋した女の子が40年ぶりに「よりを戻そう」と言いよって来てくれたときの状態に似ているかもしれない)

 

当然なのだろうが、心の中で最も美しく作られた思い出を、プレイしてみて

「今のゲームの方が全然面白い。俺はこの40年間何を期待していたんだ」

.......という状態にしてしまうことが、果たして幸せなのだろうかと。

 

当時の、憧れが生み出した、圧倒的な素晴らしいものとしての記憶を、ずっと大切にしたまま余生を生きていくでもよいのではないかとも思うのだ。

 

だけど。

やっぱり、止まらない。止められない。

目の前に出された、40年を経て現実となったその欲望に手を出さずにはいられない自分がいる。
(余談だが、これは映画「ペットセメタリー」のあの禁忌ともいえるラストシーン。死んだものを蘇らそうとした者が受ける背徳的で残酷な罪と罰、を想像させる)

 

そして禁忌へ.........。

 

少し触ってみた。感触はいい。

まず、パッケージ化が素晴らしい。それだけで救われた気持ちになる。

キーボードで遊ぶことを前提にして作られたPCのゲームを、家庭用ゲーム機のコントローラで遊べるようにする工夫は、なかなか手間だ。それが丁寧に作られている。

マニュアルも丁寧だ。

また、当時のゲームの取説もおまけでついていて、それを読むだけで楽しい。

ゲームそのものよりも、おまけで十分くらいな魅力がある。これは元のProjectEGGよりも優れているのではないかとすら思う。

 

全ては杞憂だ。

ゲームそのものが古かろうが、遊びにくかろうが、そのときの思い出を楽しく紐解くできるようにパッケージされていたことで、もう心は成仏していたのである。□

 

つづきは......遊んでみて、また何か書きたくなったら書くかもしれない。笑

要するに、僕は失恋していたんだな、ザナドゥに。40年間。

 

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