個展をしない人は、
個展をする人をすごいと言うが、
個展の中を見たら、
良い個展と
良くない個展がある。
良くない個展というのは、いわば「ただやっているだけ」の個展だ。
やっているということだけを拠り所にして、安心しちゃっているような。
折角やるのならば、良い個展をしなくては意味がない。
そして「良い個展」の上に、「更に良い個展」、「更に更に良い個展」というのがずっと続いて行って、いちばんうえのあたりに巨匠がいる。
折角やるのならば、いつもそこを目指すくらいの個展をしていたい。
良くない個展は、見る側もただの「情」とか「義理」で作品を見たりしている。
全く知らない人を招き入れる強い魅力とか、引力とか。
そういう本物の「質」で戦える作品をつくりたい。つくらないといけない。□
INSIDE PlayDead
まず特筆すべきは、「触り心地」。
奥行きと空気を感じさせる独自の空間と、キャラクターのムーブマン。
人も草も生きているかのような不思議なリアリティがあり、ゲームを始めてすぐに吸い込まれる。
操作は、右と左、Aボタンのみという超絶シンプルなスタイルを堅持する。
どれだけ深い考察や見当が重ねられたことだろうと、果てしない気持ちになる。
そして不気味な世界観。
ひたすら右へ右へと進んでいくだけだが、所々にしかけられた罠や、猛犬から逃げ続け、前に進むためのパズルを解いていく。
暗く、残酷で、重い。それでも逃げ続ける主人公がなにものでどこに向かうのかをみとどけたくて、コントローラを置くことができない。
横スクロールアクションゲームとしてのひとつの到達点なのではないか。
いまやPlayDeadの次回作は?!と世界中が気にしている。
間違いなく歴史に残る傑作である。
#ラストについては哲学的問いかけを発信したのか、結末の説明を放棄したのかがわかりかねたが。。隠れたラストシーンを見ても、疑問が残る。
吉野の桜は、美しいと絶賛される。
例えば、近所の歩道沿いに植えられたソメイヨシノの満開の美しさは、多くの日本人にはおなじみだし、それが広い公園であれば御座でも敷いて宴会をする光景も見られる。
そんな景色や風物詩はある意味日本であればどこでも見られるから、吉野の桜がすごいなどと聞いても、近所でも充分という人は多いのだろうと思う。
が、
吉野はやっぱり別格だと思う。
近所で桜は見たからもう満足。では済まされない。
吉野の桜は、桜でありながら、別のものと思った方がいい。
今年は例年に比べて桜の満開がとても早かった。
吉野は山の麓から、下千本、中千本、上千本、そして奥千本とエリアごとに名前が付けられていて、奥になれば標高も高く、例年ならば4月下旬に見ごろを迎えるものであると聞くのだが、今年に限っては4月の上旬には散り始めてしまうほど、早かった。
下から徒歩で巡るとなればかなりの登山道を歩くことになるから、駅前のバス停から中千本あたりまで登り、そこから徒歩で登ることになる。それでもかなりの勾配を登っていく必要がある。
水分神社まで来たらもう相当奥まで来た感じがする。これ以上奥へ行けばただ山があるばかりではないかと思う。ここで引き返す人も多い。が、そこからさらに奥へ進むと奥千本が見えてくる。
鬱蒼とした林の中の石畳を奥へ奥へと昇って行った先に開ける景観。
「20年後に来てご覧」
後ろからあるくご老人が声をかけてきた。
多くの桜は細く、若い。しかも散り始めていたりもする。
だが、その細さに、ダイナミックに咲いてアーチを作るソメイヨシノとは全く別の、強烈な切なさや儚さがおそいかかってくる。
山の奥の奥であることや、南北朝時代に後醍醐天皇がひっそりと晩年を過ごしたといわれる歴史的なうら淋しさもあるのかもしれない。
この言葉にならない切なさ、儚さは、多くの桜が咲く日本でありながら、ここでしか感じることができないものだと確信する。
見る以上に、感じる。噛みしめる桜なのであった。□
今回の個展を振り返って、
作品制作については、妥協もなく、今できることを楽しくやりきったという清々しさがあったけど、
告知や宣伝といったマーケティング活動が、もう全くと言っていいくらいできてなかった。
千秋楽が終わり、作品をトラックに詰め込んだ直後、ものすごい喪失感に見舞われた。
いつも多少はそんな気持ちもあるのだけど、今回は特にひどくて、これは一体なんだったのだろうかと考えていたんだけど、そういうマーケティングが不十分だったことへの後悔のようなものだと思い至った。
確かにコロナのせいもあったけど、もう少し告知、宣伝、販促活動をちゃんとしておけば、もうちょっと多くの来場を見込めたのではないかと思うのです。
すべてにまんべんなくきっちり力を分配しないと、こんなことになるのだな。
今回の大きな反省である。□