吉野の桜は、美しいと絶賛される。
例えば、近所の歩道沿いに植えられたソメイヨシノの満開の美しさは、多くの日本人にはおなじみだし、それが広い公園であれば御座でも敷いて宴会をする光景も見られる。
そんな景色や風物詩はある意味日本であればどこでも見られるから、吉野の桜がすごいなどと聞いても、近所でも充分という人は多いのだろうと思う。
が、
吉野はやっぱり別格だと思う。
近所で桜は見たからもう満足。では済まされない。
吉野の桜は、桜でありながら、別のものと思った方がいい。
今年は例年に比べて桜の満開がとても早かった。
吉野は山の麓から、下千本、中千本、上千本、そして奥千本とエリアごとに名前が付けられていて、奥になれば標高も高く、例年ならば4月下旬に見ごろを迎えるものであると聞くのだが、今年に限っては4月の上旬には散り始めてしまうほど、早かった。
下から徒歩で巡るとなればかなりの登山道を歩くことになるから、駅前のバス停から中千本あたりまで登り、そこから徒歩で登ることになる。それでもかなりの勾配を登っていく必要がある。
水分神社まで来たらもう相当奥まで来た感じがする。これ以上奥へ行けばただ山があるばかりではないかと思う。ここで引き返す人も多い。が、そこからさらに奥へ進むと奥千本が見えてくる。
鬱蒼とした林の中の石畳を奥へ奥へと昇って行った先に開ける景観。
「20年後に来てご覧」
後ろからあるくご老人が声をかけてきた。
多くの桜は細く、若い。しかも散り始めていたりもする。
だが、その細さに、ダイナミックに咲いてアーチを作るソメイヨシノとは全く別の、強烈な切なさや儚さがおそいかかってくる。
山の奥の奥であることや、南北朝時代に後醍醐天皇がひっそりと晩年を過ごしたといわれる歴史的なうら淋しさもあるのかもしれない。
この言葉にならない切なさ、儚さは、多くの桜が咲く日本でありながら、ここでしか感じることができないものだと確信する。
見る以上に、感じる。噛みしめる桜なのであった。□