制作日記(第10回個展まで39日)

 

今回の制作の苦しみは、計画通りに作品が完成していないことにある。

 

ではなぜ完成しないかと問えば「新しい作品」を作ろうとしているからである。

新しい作品は、これまでのやり方とは全くちがった構成や色づかいや技法を駆使して生み出すものである。それがこれまでのやり方を前提とした計画にかみ合うはずがない。

新しいやり方を試みることは絶対にすべきである。

反省すべきは、全ての作品を一気に新しいものに置き換えようとした点にある。

少しずつでよいのだ。

10回目の記念展ということに力みすぎて、無理な風呂敷を広げてしまった。

手堅く、これまでのやり方で作った作品をおさえた上で、新しい作品を一部入れていく。それが軌道に乗ったら、全てを新しい作品に置き換える。べきであった。

 

前回書いてしまったが、開催時期が悪いのではない。

一部それもあるかもしれないが、それ以上に、自分に期待をかけすぎて潰れかけている。というのが今回の苦しみの根源ではないか。

 

いよいよ残り40日を切ってしまった。さて、巻き返しなるか。□

制作日記(第10回個展まで40日)

 

弱音を吐く。

 

6月に個展を設定したのは失敗だったと思う。

 

個展は矢張り4月に開催すべきだ。それを痛感している。

 

何故6月にしたのかというと、毎年6月に開催していた公募展が美術館の改装工事で当面中止となり、ではその代わりに。と、個展を置いたのだったが。

 

リズムが作れない。

 

(かっこをつけるつもりはないが)毎年4月に実施していたのは、桜と共に咲きたい。と考えていたからである。
毎年秋の公募展への出品が終わった頃から、正月を経て、4月に向かう冬という季節に、幹の中で満開の花を咲かせる準備をする桜に自分を重ね、自分も花を咲かせるべく個展の準備をがんばろうと決めていたのである。
このスタイルは10年に及ぶ活動の中で、自分の中にリズムを作っていたと思う。

 

だが、今回6月に開催をシフトさせてみたところ、全くリズムが作れない。

だいたい40日前といえば、展覧会のご本尊と言える作品は数点完成し、制作に加速が入っている時期だが、今だにエンジンがかからずにいる感じがする。

このGWに多くの時間を費やしたものの、これといった手ごたえが得られず、未だにくすぶっている。

「寒い!」と叫びながらアトリエに閉じこもり、日々小さな時間でコツコツと制作をしていた例年では、多少の失敗があっても、まあなんとかなるだろ。と気合で乗り切れていたが、連休と言う時間をあててみると、ゆるんでしまうのだろうか、かえって成果が出ず、絵が締まらない。
さらにそんな作品を見て自虐的にもなり、気分がなえる。

記念展。なんて大風呂敷を広げてみたが、過去の個展の中でワーストともいえる展覧会になり果ててしまうのではないか、と危惧をしている..........。

 

ここから挽回なるか。しなくてはなるまい。□

分身

 

 

近しい人が亡くなるということが増えてきたように思う。

 

若いころは、どこか遠くにみえていた訃報が、歳を重ねてくると、ゆっくりと身近に迫ってきている。

 

絵を描き始めて20年になるから、当然それだけの時間の分、ぼくらは歳をとって、自分も周りの環境も変化している。そういったことが増えて来るのは仕方がないことだろう。

健康でゆっくりと歳を重ねることができる人であれば、周りもその「おだやかな変化」に合わせて準備をしたりもできるが、健康を壊したり、事故にあうなど、予想できない事態で「突然やってくる変化」には準備ができない。

 

近しい人が亡くなったと聞いた。

突然の訃報だった。

ご家族、当事者の間では1年以上前から分かっていたことらしいが、外野の我々にはその情報が伏せられていたようだ。

居てくれることが当たり前で、居てくれることを前提として、考えていたいろいろなことが、「一瞬で」全て不可能となった。全てが喪失された。

そういう体験を初めてした。

なんら情報がなかったので、まさに登っていた梯子が突然消えて、まっさかさまに転落するような気持だった。

 

彼(または彼女)と、これからのことを話す機会は永遠に無くなってしまった。

彼(または彼女)が作る新しい作品はもう見られない。

逆に自分が作った作品を彼(または彼女)に見てもらうことは永遠にかなわなくなってしまった。

 

彼(または彼女)が、自分の中に占めていた空間が突然解放され、穴があいた状態になる。だが、それを埋めるものがないことに途方に暮れる。

 

「形見」

 

という言葉が脳裏に浮かんだ。

生前に彼(または彼女)が残した形。それを彼(または彼女)の存在に見立てる。
そういうものが心に空いた穴を少しだけ埋めてくれるものなのかもしれない。
そんなものは、これまでどこか遠くの物語の世界にあるものかと思っていたが、今、それがリアルなものになった。

 

人の人生は高々80歳か90歳ていどのものだろう。

長いと思っていたその時間のいかに短いことか、と感じ始めている。

神様から、親から授かったこの体を活かして、何かを生み出し、世界を驚かせてみようなんて野心を燃やしていた時間はあっという間に流れて、そんなあてずっぽうのような大志は何も実現しないまま今に至る。もしかしたらこのまま土に戻って終わりかもしれない。そんな不安や諦めのような気持が、かつて燃え上がっていた野心を鎮火させようとしている。

人生とはなんだろう。

自分が生まれてきた理由は何だろう。

これまで何をしてきたのだろう。

これから何ができるだろう。

何が残せるだろう。

 

自分もいづれ死ぬだろう。そのとき、自分に成り代わるもの。自分の代わりとなって人々の心の片隅に生き続けるものを残したい。大きくなくてもいい。自分の身の丈にあった残すべき何か。それが残された人にとっての私の分身であってほしい。

 

人は自分に何を求めているか。

自分は人に何を残せるか。

自分は人に何を残したいか。

そういうことにこれからしっかり向き合って、生きていくべきだと思う。□

今日の一冊

 

「透明な螺旋」 東野圭吾著 文藝春秋

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下、自分のためのメモ。全てネタバレしているので注意)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガリレオの実母が登場。

島内園香にDVをしていた男・上辻亮太が殺害される。

犯人は銀座VOWMのママ・根岸秀美。

自分の娘を捨ててしまった過去をもち、その孫と思しき島内園香を守るために上辻良太を殺害するが、実は肉親ではなかった。そう思いたいがためにそれを否定しうる上辻を殺した。

島内園香をかくまった絵本作家・松永奈江はガリレオの実母だったが、園香をかくまったのはただの厚意であり、秘密やトリックというものはなかった。

家族愛というテーマは良いが、それぞれがつながっておらず、トリックもないので、これまでのガリレオシリーズとしては、パンチが足りなかった気もする。□

制作日記(第10回個展まで52日)

 

第10回記念個展のDMのプルーフ校正中。

 

遅い。
前回の記録を見たらこのころにはDMはとっくに完成していた。
例年にない遅れで事態は深刻だ。
ここから巻き返しを図らなくてはならない。

とはいえ制作には真摯に臨みたい。

DMを見て「お!」と思ってくれた人が会場に足を運んでくれたとき、その期待にしっかり応える作品を準備したい。
はるばる足を運んでくれた方々に「DMはこけおどしか」と失望させないように油断なく取り組みたい。

そのときになって「もっとちゃんと気合を入れておくのだった」「もっとがんばれた」「もっといい作品を作っておけばよかった」などと決して後悔しないようにしたい。

というか、しろよ>自分。□