絵描きの本分

一見、単なるうら寂れた廃屋を100号の画面に、緻密に描き込んだ絵がある。


一般人の見方は、その緻密さに「すごい」と感じるより「なんでわざわざこんなところを描いたの?」という、むしろ「呆れた」というニュアンスの感想が返ってくるだろう。


逆に、自分が描き手、または非常に多くを見た識者であれば、100号という大画面にこれだけ緻密なものを、そして誰も描かないものを描いている、というところを見て、その人の「絵的体力」や「描写力」に高い評価を与えたりする。


自分も絵かきの端くれであるから、後者の見方にもある程度理解はあるつもりだ。


「ああ、俺だったらこんな殺風景な場所をモチーフにして、こんな大画面に描くとしたら、最後まで描く前に飽きてしまうだろう。全くすごいエネルギーだなあ」と、その「絵的体力」をある程度は評価する。


が、本当に正しい絵の見方は前者、つまり一般の人々の見方ではないのか。


絵は絵描きだけのものではない。


むしろ一般の人々に伝えるために存在する。


絵の本質は「どれだけがんばったか」ではなく「どれだけ美しいか」でなくてはならない。


絵から味わうことのできる要素は色々あるが、その優先要素に「体力」が掲げられた絵ではいけない。
そんなものは一般の人の目に「ご苦労様」としか映らない。


己の「技術」や「体力」を人々に誇示するのではなく、彼らに自らの感性で感じた世界の美しさを気づかせるものでなくてはならない。


人に見せるべき絵の要素として「体力」の優先度ははるか下だと思う。


それ以上にプレゼンテーションしなくてはいけない優先要素は山ほどある。


昨今の洋画が「見るだけで疲れる」と言われるのは、今の絵が体力勝負一本の世界に染め上げられつつあるからではないか....。


卑怯者、卑怯者、卑怯者。私は小品一枚でもそういうものと戦い続ける。□