この8点は万人に対しての8点ではない。
ただこの作品が、自分が芸術のあり方について新しい発見をするトリガーとなってくれたことへの感謝の気持ちでつけた。
一般的に、作品というものを制作する上では、古典をベースに積み上げ、作品をつくっていくことが原則である。少なくとも自分はその原則に従っている。
過去のリスペクトする作品群から典型的なスタイル、定石といったものを学び、踏襲しながら、更に新しい世界を構築していく。
ベクトルはその始点からまっすぐ同じ縦の方向を向いており、自分が乗るラインも過去の人たちが踏んできたラインも同じ直線状にあると思っている。
だが、新しいもの。を作っていく上では、どこかでそのベクトルの向きは保ちながら、座標のみを横にずらすような大きなインパクトが必要になると思う。
この映画で言えば「ローマの休日」やら「街の灯」といった古典的名画から始まった、定石的な作品構築方法を、真横からトラックで突っ込み、方法論は変えずに、基点を横にずらすというか。そういうことをやっている。
楽しい、うれしい、悲しいといった王道的な定石を作品のテーマとし続けるだけでは、視聴者の飽くなき欲望に応えていけないのだ。これが現代美術というものの発想の根源ではないか。
「パレード」を見て、自分は現代美術的な概念や古典的アプローチくずしの方法論といったものを、突然氷河が氷解するように認識した。
5人の立場の違う男女がアパートの1室で同居している。
その設定からして大きく不条理でゆさぶりをかけられるが、その中で生活している個々の若者たちの突然の屈折に、見てはいけないものを見たような、これまでの人生で見てきたどのカテゴリーにも属さない刺激、ゆさぶりを受ける。
例えば、全く見知らぬ人の家に忍び込み空き巣をするでもなくただ机上の写真を見てマスターベーションをする男。品行方正で世界をまたにかけ働いている映画配給会社の男が、突然歩いている女性に狂気を向ける。レイプビデオを見ることで安らぎを覚える女。...
本作の中でマルチバースといっていた、自分が見ているものを必ずしも他人が共有しているわけではない、それぞれが宇宙を持つという概念。そういう哲学的な問いかけを予想もしない事例を持って横からぶつけてくる。
自分は今のやり方にいつも疑問を持っていた。
それは座標をずらせられないかということだった。それをこの映画が教えてくれた。
別にこの映画だけが教えてくれたわけではない。
ただ、自分が求めていたものが、偶然この映画をきっかけに見えるようになっただけだ。
この作品は映画というより芝居であり、そういう意味では、芝居の方が前衛に近いということ示している気がする。
シンプルであり、新しいこと(容易にたどり着けないもの=その人の中から勝手に出てくるもの)。
それが少なくとも今見えているゴールだ。だが、今回の気づきだけでたどりつけるものでもない。
旅はまだまだ続いていく。□