パワハラという社会問題があります。
上司から部下への、指示の出し方や、指導の仕方に、上司権限を乱用した無茶な指示や暴力があるなどで、部下をノイローゼにおとしめるような問題です。
これは、上司と部下。自分と他人の間の話だけど、最近、自分と自分の間、つまり、自分一人の中にもパワハラがあるのだと、思い至りました。
自分という人間が上司となり、自分という部下に指示を出す。
人間一人の意思というものは、いうなれば、自分の中にいるもう一人の自分が、もう一人の自分に指示を出して動くとも取れます。
ここにもパワハラがあるのですね。
ひとりパワハラというのだろうか。
自分をこれまでずっと苦しめてきたものの多くが、この自分へ多大なる期待をかける自分であり、またその指示に応えられない自分に対する、執拗なまでの折檻だったのでは、と思い至りました。
自分の敵は自分だったのでは。
社会で第三者が敵に回るということはよくあります。というか、ある意味、他人というのは全て「敵」と考えておくくらいがいいのかと、最近は思います。一時的に、うまく付き合ってくれているように見えているだけで、ある瞬間、誰もが「敵」になりうるものだと。
そこに加えて、自分までもが自分の「敵」であったら、もう世界のどこにも「味方」となるものは居なくなってしまう。
ならば、せめて自分だけは自分の「味方」でなくてはならないなと思いました。
これまでの苦しみの根源は、自分も含めすべての存在が自分の「敵」だったことにあるのだと思ったのです。
そう思った瞬間、20年来自分に突き刺さっていた氷河が、すっと溶けたような気がしました。
ある意味の悟りかもしれない。
いろいろな啓蒙書にも、似たようなことばは多くあったと思うのです。だけど、体の芯まで沁み込んできてはいなかったのです。
人生って、なかなか時間がかかるものです。□