親友が欲しい。
親友はいる。
でも、「もっと!」な親友が欲しい。
そんなことを考えたのは、夜の京都の町を歩いたときだ。
京都の夜は美しい。
裏路地を歩くと、そこここに小さな提灯が灯っていて、知る人ぞ知るような小さな居酒屋が隠れている。
居酒屋が好きだ。
おいしいものを極上の空間で食べたい。
そんなお店を見つけるたびに、入口まで行ってみて、中を眺めたり、入口にある看板やメニュー、お店のカードを手に取ってみて、いつか中でおいしいものを食べる自分の姿を想像する。
そのとき合わせて考えるのは「誰と行くか」だ。
学生時代のクラスメート?
絵画仲間?
職場の同僚?
妻?
店構えをみてだいたい「こういう雰囲気の店が好きそうなやつ」が選出されるのだが、ではこの週末に誘って行こう。と思っても、それはすぐには実現できない。
誘ってみたところで、「週末は予定がある」「お金がない」「その料理は苦手だ」「今は別の物が食べたい」等、それぞれ様々な状況に置かれていて、どんなときでも気軽に誘いを受けられる存在は、実はほとんどいないことに気づく。
さらに、自分は行きたいのだが「好きそうなやつ」がいない店もある。
自分が選んだこれらの店は「全部行きたい、いつでも行きたい」なのだが、それを受け「君が選ぶものは全部行く、いつでも行く」という友人は、存在しないことに気づいたのである。
親友と言う存在は、自分のもつ価値観の多くを共有し、理解している割合の高い存在なのだが、100%共有、理解はできないのである。そういう壁を超えた「もっと!な親友」が今欲しいのである。
AI、ロボットの時代を超え、もはや「友達ロボット」にご登場いただくしかないのかもしれない。そういう時代に来ているのかもしれない。□