「気が向いたらやる」
.........という表現を使うと、世の中の多くは「じゃあ、いつやるんだ!」と、半ばこちらに全くやる意識がないものだと決めつけて、強く反発してくることが多い。
確かに現代の日本語において、この言葉は「ほぼやる気がないことを、その場をしのぐために先送りして、逃げ切るためのフレーズ」として使われるものだと、ほぼ決まっている。
だけど、自分が「気が向いたら」というとき、それは別に先送りするつもりは毛頭無いのである。
確実に「やる」と決めている。
ただ、今は、「気が向かない」のである。
そして、その絶対やらなければならないことに対し「気が向くのを待っている」のである。
今、1月発行予定のアトリエの新聞を作っている。
1月中には、絶対に発行しなくてはならない。そして、確実に発行する。
だけど、今は、「気が向かない」のである。
だから、気が向くのを待っているのである。
毎回、その「風」を待ち、風がこちらに向かって吹いてきたとき。それこそが、気が向いたときだ。
その時を待ち続け、来たと思った瞬間、短時間で一気に決着をつけ、完成させる。
これまでに自分はそういう作り方をしてきたし、これからもそういう作り方をしていくだろう。
だけど、その考え方をもってして「気が向いたら」と、「業務」や「宿題」や「家事」に導入すると、まるで水に油のような反発を受ける。
すなわち、彼らの言い分は「長い時間を待つ余裕はない。今すぐやれ!」なのである。
突き詰めていくと、芸術性を伴う仕事には「気が向いたら」というのは、世界の多くは理解をもっているように思う。
新しい表現のためには潤沢な時間が必要である、と誰もが感覚的に知っているから。
だけど、家事や業務、宿題といった、即時性を伴う仕事について「気が向いたら」というと相手は「待っていられるか」とかんかんになるのである。
だけど、待ちたまえよ。
どちらも〆切という期限を持つ点は共通であり、
大きな違いは、それが長いか、短いかである。
期限が短いならば、短いなりに、成果を出すべく、自分は動くのである。
今、気が向かないとしても、その〆切があと1時間後であるのならば、その期限内になんとか、気を向かせてでも、自分は乗り切る人間なのだ(そうであってほしい)。
すなわち、許せよ。ということだ。
気が向いたら。っていう表現をもっと広く、柔らかく、表現者からの言葉としておおらかに受け止めてくれよ、世の中よ。ってことなのだ。
気が向いたら。で、何が悪い。□