終活....?

 

1年にわたる自治会当番が終わろうとしている。

 

「次の当番が回って来るのは10年後ですが、

 そのころには私はもうこの世にはいないでしょう....」

 

そんなことを自治会長がよく口にする。
それをどっと笑う他の年配の世話役たち。

今、死ぬということがとても怖い自分なのだけど、歳を重ねると、間近に迫ってきている死への恐怖も消え、冗談で笑い飛ばせるようになるのだろうか....?

(比較的)若い人。という立場で自治会に参画してきた者として、この1年、自治会という組織をシンプル化したり、引いては発展的解消にもっていくことを目標に、発言をしてきたつもりだ。

会長含め、役員たちが子供たちを育てていたころはまさに自治会の黄金期であり、何十人もの子供たちのために、夏には盆踊り大会を企画してやぐらを組んだり、正月には盛大な餅つき大会を開くなどして子供たちや同じ地域の仲間たちとの交流を図ってきたというのだが、その子供たちが成人し独立していってしまったことで、この自治会の使命というものは概ね終了しているのである。

そうなってくると、今、年会費は何のために使うのか、使わないのならば会費を安くすべきだ。という意見が出たり、今の我々では自治会の仕事ですら体力的に満足に対応できないので簡素化すべきだ。というような意見が出てきたりする。

まさにこの機会に、シンプル化を図ったり、発展的解消にもっていくのは自然な流れともいえよう。自分にとっても、今と言う時代は、個々のニーズは多様化していて、みんなでまとまって何かを企画するといった要望はほとんどない。企画をしても、誰も集まりはしないだろう。この機会にどんどん、縮小化していくべきだと思っていたのである。

 

自治会の会則を更新しよう。

 

自然とそんな話が出てきたのでしめた。と様子を見ていたのだが、すぐに「古くから続く因習を、我々だけで変えていいのか」というような超保守的な声。
そして冒頭にあった「もう10年でいなくなる自分」がそんな大それたことはできない。という弱気な声。
年初には声の大きかった会長が、最後には悲しそうな小さな声で「無理です。次の代の自治会の課題とします」と結論を出し、次年度に見送ることを決めたとき、人生の終わりを迎えるとはそういうことなのか。と感じ入ってしまった。

 

「明日で世界が終わるとしたら今日なにをしますか」

 

そんな話が、本やテレビで話題になることがあって、「腹いっぱい鮨をたべるかな」とかなんとか答えを考えてみたりするのだけど、それは「終わるわけがない」という気持ちがあったうえでのいいかげんな答えなのである。
だが、会長のあの「無理です」という言葉には、大きな課題を解決するには残された時間が短すぎるという切実な気持ちがあり、断腸の発言だったと感じたのである。

ペットを飼いたい。と思っても、ペットよりも自分が先に死ぬかもしれない。となったとき、やはり若い時に飼おうという気持ちとは、全く違う考え方でどうするかを考え、決断をくださなくてはいけないのである。

 

終わる。というのは、そういうことなのである。□