20年近くずっと行こう行こうと思っていて行けていなかった
「都をどり」に、ようやく行くことができた。
20年前に行けていたら、そのときの舞妓さんはもう芸妓になっているのだろう。
本来ならば先斗町の歌舞練場なのだが、工事中のため?今回は南座での開催となった。
開演の時間になると、緞帳と左右の幕がさっとあがった。
左右には舞妓さん芸妓さんがずらりと並び、笛、小鼓、コンチキチンの演奏と唄が始まる。それに合わせて、花道から美しい着物を着た舞妓さんたちが現れ、ぴったりと合った踊りを披露しながらステージへ進んでいく。
呼吸が止まった。
踊りの美しさもさることながら、舞妓さんって演奏もするんだということを初めて知る。
「よっ」「ほっ」「はいっ」といった可愛い掛け声に合わせて小鼓や太鼓、笛を演奏する舞妓さんたちの健気さ。
長い京都の歴史・文化を紡いできた美しく伝統的なステージ.............なんてことをつらつら書こうと思ったけど、面倒くさい。単刀直入に言うと、
要するに、「萌えたんです」。
「演奏する舞妓さん」に萌えました。
小鼓とか笛とか、いわゆる「能」等でも同じ楽器が使われるけど、これらは男が使うものというイメージしかなかったのです。
が、20に届くかどうかの美しく和装をした女の子たちが、並び、凛々しい掛け声で演奏する姿に、健気さに、萌えました。
これが「萌える」ということなのか。
そんなことを今更ながらに、体で知ったのであった。
一種の「恋心」なんでしょう。
でも高校生がクラスメートに想うようなものとは違う。
声を掛け合ってお互いの言葉や反応から、相手という存在が具体的になり、少しずつ気持ちを高ぶらせ、近づいていくような恋愛とは異なり、
「萌え」は近づく距離に限界がある。ステージの上で踊る相手を「究極の理想」という存在として位置づけ、「絶対に成就しない」という甘酸っぱい制約の中で見つめるのである。
遠くから眺めて、愛でて、自分の声援で相手がさらに少しでも輝いたと信じ、それ以上は近づけないという甘酸っぱさも噛みしめる。
その距離感を保つということも、萌える。と言うことに含まれているのでしょう。
動物園でパンダを見て「家に連れて帰って飼う」を実行する人はいない。そんな気持ちに近いのかもしれない。
ちょっと寂しい気持ちもあるけど、力が湧いてくるような気持もあって、観られてよかったなと思いました。
次は「推し」を探したい。□