ここ数日、人に会う機会が多かった。
今、あらためて叫びたい。
「人に会おう」
誰もが人に会いたい、というわけではないかもしれない。
だけど、少なくとも自分は人に会うことで生きながらえることができる。という確信をした。
人に会い、顔を見て、目を見て、話して、聞いて。
五感で人と話すということは、極論、「罪の償いをすること」とすら言えるような気がしたのである。
人は生きているだけで、誰かしらに迷惑をかけている。
極力迷惑をかけないように抑えていても、それでもどこかで迷惑はかかってしまっている。
どこかで迷惑をかけてそれを尻ぬぐいしてもらって、またその逆もあって。
人ってのはそうやって助け合って生きている。
オンラインとかメールといった手段でのコミュニケーションは、短時間で情報を伝えることはできても、感情は伝えることができない。
がんばればできるのかもしれないけど、多くはできていないように見える。
だって自分も実際、仕事先から、文面上は何の変哲もないメールを見て「もしかして相手は怒っているんじゃないか?」なんて不安を感じてしまうことが多い。
こちらが申し訳ないことをしたとか、謝りたいと思うようなときにやりとりしたメールでは、なおさら、「了解しました」なんていうだけの文字の裏にも、行間を勝手に予想して、怒っているかもしれない、なんていう「感情」を勝手に付け加えてしまい、怯えていたりする。
メールは短い時間で情報を端的に伝えることが優先されているから、「感情」なんてものまでも丁寧に書き込んでいる人は、ほとんどいない。読む側が自分の推測で勝手に「感情」を付け加えて読んでいるのである。
コミュニケーションというものが、単に文字だけというような状態が長く続くと、実際は相手は何も思ってすらいないのに、一人の架空の相手を作り上げ「激怒している」というところまでの窮地に自分で追い込んで、疑心暗鬼の地獄に落ちて行ってしまうのである。
長く続くコロナ禍によるメンタルのストレスの源ってのは、ここにあるのだと思う。
顔を見て話したら、そんな疑心暗鬼は、本当にただの疑心暗鬼だったと瞬時に悟り、それまで蓄積された、相手への負の幻影が瞬時で解消されてしまう。
たったそれだけのことなのだ。それだけのことを、一人で抱え続けて地獄に落ちるのである。
心の不安を解消するのは、結局、人と会うことなんだと思う。
言い換えれば、人に会うことは「自ら作った勝手なる罪の浄化」なのである。(つづく)□