料理を作る。とか、
買い物に行く。とか、
掃除をする。とか。
そんなことで自分は日常に貢献している。
だから自分にも価値がある。と、主張したかった。
でも、冷静に考えてみると、
そんなことは僕でなくてもできるわけです。
自分がこの世にいなくなったとしても、すぐに代わりが現れて代行するだろう。
そこに自分がここにいることの価値を乗せようとしても、
それは価値とは思われていない。
そんなところに人間の価値は載せられない。という残酷な現実。
改めて、では価値は、どこにあるのかと考えてみると、
その人そのものにあるのではないか。と思い至る。
顔。
声。
話し方。
笑い方。
怒り方。
笑いのツボ。
怒りのツボ。
言葉の選び方。
行動の選び方。
好きなこと。
嫌いなこと。
それらが集まってできた個人。
そういうところに人の価値はあるのではないか。
それらはその個人がいなくなったら、本当に無くなってしまって、なにをもってきても代用はできない。
以前、三重にある絵画の先生の先生、のアトリエを訪ね、お酒をごちそうになって、泊めていただいて。さらに、翌朝いただいたお味噌汁とごはんの朝食。
お味噌汁とごはんだけだったら、どの家でも準備できるものだけど、あの日、先生と先生の奥さんが作ってくれた、お味噌汁とごはんの味は、あの瞬間にしかなくて、誰も決して同じものが作れないものだったのでした。
価値ってまさにそこにあるのではないか。改めてそう思うのです。
そしてそういう唯一無二の瞬間や暖かさに感謝をしなくてはと思うのです。
本当に価値のあるそういう日常って、もっと派手で目に留まるものものに、覆い隠されてしまっていて、価値として見られていないし、見過ごされているのだけど。
そこを。今だからこそ、そこが、価値だったんだと気づこう。思いを巡らしてみよう。
名著「嫌われる勇気」が、「ただ居るだけでいい」と、我々を許したアドラーの哲学はまさに、こういうことだったのではないだろうか。
日日、あたりまえの日常に、あらためて感謝を。□