あのころ ~浅草・井泉のとんかつ~

 

10年ほど前は、品川で仕事をしていた。


あのころは浅草に住んでいて、食事はほとんど外食で済ませていた。
「楽」を優先して、なんでも食べることができた。
年齢だけではなくて、お腹も若かったのだろうと思う。

だが、浅草は観光地である。
普通に外食するだけでも、なかなかの高額なお金がかかる。
毎日外食をするには経済的にもなかなか重い場所なのである。

そんななか環境で暮らしていく中で、観光地・浅草でも、観光地を盾にしない名店もいくつかみつけてきた。

とんかつ井泉。

 

浅草に幾多のとんかつのお店あれど、当時で最もアットホームなお店だったと思う。

ごはんのおかわりが自由だった。のである。

今となってはとんかつのお店ならば、ごはんのおかわり、キャベツ、味噌汁のおかわりなんて、フリーであたりまえなのかもしれないけれど、当時はそんな店もあまり多くなくて、ましてや観光地・浅草では、他のお店よりも上乗せした価格設定がされていた。おかわりなどしようものならば、300~500円くらいは覚悟したものである。

だが、井泉は、そんな時代背景とも観光地とも関係がなく「おかわり自由」をうたっていた数少ない名店だった。
仕事が終わり、観光客が帰り、シャッターも降り、静まり返った浅草寺仲見世通りを歩きながら、今日は井泉のとんかつを食べようと決めて、通勤経路をはずれてとんかつやに向かったものであった。

そのうち、毎日のように通っているうちに井泉の大将とも奥さんとも、顔馴染みになってきていたのだが、ある晩、店に立ち寄ったとき、僕は普段目にしないものをメニューにみた。

 

「ご飯のおかわりは、300円をいただきます」

 

昨日まで、そんな表示はなかったのである。
昨日と今日の間にいったい、井泉にいったい何が起こったのだろう。|
知るよしもない。
だが、前日までおかわり自由だったものが、今日突然有料に変わったことに、目を泳がせていた僕に、奥さんがなんとなくいたたまれなくなったのだろう、

 

「おかわりいかがですか。...いいですよ、気にしなくて」

 

僕はごはんをしっかり2杯いただいて、おかわりの代金は払わず帰宅したのだった。

あれから10年くらいたっているだろう。
あのときのことは、今になっても鮮明に覚えている。

井泉のおかあさんは元気にしているだろうか。
なつかい浅草。機会はつくるもの。かならずまたお伺いしたいものである。□