あるアンケートで「あなたは自分の職場・仕事に誇りをもっていますか」
というのがあった。
よくわからない。と回答した。
ラグビー日本代表が、美しい桜のマークを付けたユニフォームを付けて戦う姿を見たとき、「誇り」を感じた。
海外の観光客が雷門前のインタビューで「日本が世界で一番好きよ」と答えているのをみたとき、「誇り」を感じた。
どちらも、別に自分はただ見ているだけで、何もやってないのに。
本当に誇りを持てるのは、ラグビーにいそしんでいる日本代表の選手たちであるし、浅草で外国人観光客をもてなしているお店の方たちなのだろうに。
アンケートは、ラグビーにいそしんでいる日本代表や、浅草のお店の人たちに並び、自分が携わっている仕事は、誇れるものかどうか。を問いかけてきている。
が、それに「よくわからない」と答えたのは、とても彼らがやっている仕事に肩を並べられるものは生み出せては居ない。という負い目があったからだったと思う。
改めて、何故、我々は、自分がやってもいないことに、誇りはもてるのに、自分がやっていることに誇りを持てないのだろうか。
世界中が見ていいて、人々を喜ばせているものは、それだけの価値を生み出せているのだろう。そこには絶対に「誇り」がある。が、それを自分とその周囲に当てはめてみると、とても世界の熱狂にはつながっていない。という、残念な負い目がある。
仮に、「誇りがある」と回答したとしても、それは自分ではなく、どこかよその部署が作ったものが世間的にヒットして、世の中からみたら「あの〇〇を作っているところですね」と見えていたりするんだけど、中にいる自分は、他人の成果を横取りしていい気になっているだけだったり、寄りかかっているだけかもしれない。
自分が「誇りの渦中にいる」という自覚はいつもてるのだろうか。
唯一、自分が20年に亘って携わっている絵画で、10年に一回くらい「できた」という手ごたえがある時があって、それだけは「誇り」だと確信した。
10回目の個展のDMをもって、普段はいけないようなちょっと高めの鮨屋に入り、店主にDMを渡してあいさつができた時、やっと肩を並べる事が出来た、と思った。あれが「誇り」なのだと思う。それと同等の手ごたえが、業務でも、私生活でも、ちらちらと輝いていたら、きっと、こんなもやもやはないのだろうと思うのだが。□