「仕事をする」とはどういうことか。
仕事とは、一言でいえば、
「右から受けたバトンを左に渡す」
というようなことだろうと思う。
全体の歯車として、
前の歯車から回転を受け、
次の歯車に回転を伝える。
そんなようにも表現できる。
全体を一人で完結させることができないような
大きな規模の仕事は、分担して一部を引き受ける。
自分が遅れたり、途絶えてしまえば、次に届かず、
プロジェクトとしては「失敗」になってしまう。
自分で勝手に決めて自分で走るという活動は、
趣味であって仕事ではない。
社会的な「公式」の認知や要請があって、初めてその活動は「仕事」となる。
仕事は、いつもフル回転しているわけでもない。
全体のうち、上流が激しく回っているときは、下流は静かだったりする。
例えば、用心棒という仕事は、組織がトラブルに巻き込まれたときに矢面に立って、トラブルを治めるのが仕事であり、トラブルが無い時は「待機」しているだけで、仕事をしているわけではない。
いざ。というときに、前に出て役割を果たし、社会を回す。のが仕事ということだろう。
でも、「待機」をしている間は、仕事をしていないという解釈でよいだろうか。
「待機」をしている間に、少し先のことを考えて、やがて期待される役割がやってきたときのための準備や仕込みをしておく。
それは結果として、仕事をしていると言ってもよいだろう。
準備や仕込みは、具体的に指示があるようなものでもなく、自発的に気づいたり、気を回したりして「作る仕事」だったりする。
それができるかどうかで、人としての価値に差が生まれてくる。
誰もが思いつかないところまで先読みをして準備をしたり、価値を作れる人は、社会からも評価されてどんどん仕事が集まってきたり、多くの人の期待を受け、更に大きな仕事を回すことになったりする。
同じ仕事をしていても、同じ人間であっても、差というものがうまれてくる。
例えば、何かの会議に呼び出される。
だけど、協議している内容が、今の自分には直接は関係が無い。そんなケースがある。そんなとき、何か発言・提案をした方がいいのだろうか。と悩むことがある。
発言したとき、
「差し出がましい。黙って聞いていてほしい」と思われることだってあるし、
「ありがとう。積極的に何か提案してほしい」と思われることだってある。
仕事の状態や、参加しているメンバーの考え方など、多くの要因によってその反応は変わってくる。
どんな環境であっても細かくそれらの求められた状況を見極め、判断し、考え、発言することができるのも、才能や個性になるのだろう。
自分は、ある程度のところで、そんなきめ細かさを捨てておおざっぱとすることを選択した。
そのきめ細かさによって、自分が求める結果から大きく世界がずれていくのであれば、差し出がましいと思われても、立ち入っていかなくてはならないだろう。
だけど、これまでの経験では、そのきめ細かさでそれほど大きく結果が変わったようにも思えない。
静観していても世界はほぼ期待通りに回ってきたように思う。
それでも、その中に口をはさみ、割って入っていくことに、ありがたさよりも、差し出がましさや厚かましさが上回るように感じるし、シンプルだったものがかえって複雑になるだけのような心配もあって、あまり手を出さないようにしようと思う。
以前、「シャカリキにならなくても、なんだかんだで世界は回っていくのよ」と言っていた先輩の言葉が脳裏に浮かんだ。
地面をほじくり返してから埋めるような活動をしてでも、自分が何かをしているように見せたいという姿や、割り込んでいく姿に、どうも無粋を感じて、腰を引いてしまう。
そんなことを考えている自分は、果たして働いているのだろうか。働くとはなんだ。と改めて考えてしまう。
極論、「ただその空間に一緒にいる」ということだけでも、自分の存在感はわずかにもその空間にあって、認知され、相手の発言の選択にも少しは影響を出しているのは間違いないので、それだけでも、協議に参画はしていると言える。
だけど「仕事をした」と自他ともに認知させるためにはもう少し、この空間に干渉をしなくてはならない。とも思う。それまで出ていなかった提案や、業務の結果をわずかにでも揺さぶるような発言が必要なのかもしれない。
小さな石であっても自らの意思でここに投げ入れる必要がある。
これからの時代、人間が自ら手を動かしていく仕事はさらに減り、限られていくだろう。
AIの存在も一般化され、仕事の定義は今後も変わっていくだろう。
僕らはなにをもってして「仕事をした」といえるのか。
その姿を見極め、舵を柔軟に切り進まなくてはならないと思う。□