真ん中に行きたい。と思う。
まだそんなことを言っているのか。
1行目を書いてみて、もう一人の自分の声がすぐに突っ込んできた。
もう何十年もそんなことを想い続けているし、言い続けているのだ。
未だに自分は真ん中にたどりつけない。
かつて職場の先輩が「俺って、真ん中の仕事やれてないのよ」と
自嘲ぎみにそれでいて淋しそうに、もらしていたのを思いだす。
自分から見たら、彼は人柄も良く、スキルも高く、しっかり仕事をする、
尊敬できる先輩だったのだが、
彼が客観的に自分の仕事を振り返ったとき、
それはメインストリームに乗っていないという気持ちが強かったのだろう。
確かに、組織の仕事の中には、世の中の多くの目を引く仕事もあるし、
誰にも気づかれずひっそりと終わっていく仕事もある。
彼にはずっと後者の仕事しかできていないという負い目があったのだろう。
仕事をするときには、誰もが「メイン」を目指しているのだけど、
メインカルチャーという言葉の裏に、サブカルチャーがあるように、
結果として「サブ」になってしまう、というのは世の中ではよくあることだ。
個人が地方に建てた怪しいお店や秘宝館をめぐる。という企画を、
探偵ナイトスクープでよく見たが、
彼らは「全力」なのである。
ただ「洗練」という視点でみると、どうもアマチュアっぽかったり、
詰めがあまかったり、ゆるさが出てしまっていたりするから失笑を買われている。
だけどそもそも、そんなお店やら館を建てたというだけでも、とんでもないエネルギーなのである。そこまでやり通せる人というのも、実は身の回りをみるとそれほど多くはない。そもそも、もっと早い段階で頭にブレーキが働いて「無駄なエネルギーは使わない」としてセーブしてしまっているのかもしれないが。
でも冷静に見たら、そこまで自分の想いをどんな形であるにせよ、実現できる人って、そういないものだ。
消費する側の僕らは、洗練されたものに慣れてしまっているし、お金をだすにも、そこまで磨き切ったものにしか出さない。というような、厳しい目がある。怪しいものやゆるいものは瞬時に看破し、残酷に糾弾する。
世界は、何もしない人 < 何かするけどサブの人 < 何かをしてメインの人
で構成されている。
で、まあ、翻って自分だ。
先日、職場の同僚が目の前で固有名詞検索を始めて「あなた出てますね」と言われたとき、自分がすごく矮小なものに感じてしまった。
ブログにしても、もやまん。にしても、絵画制作にしても。
ずっと「メイン」を目指してやってきたけれど、
結局、全部「サブカルチャーだよな」と思う。
どうしてもメインのレールに乗せてもらえないのである。
身近な人や仲間の、自分のことをどんな人間かを知っている人たちの目から見たら、「やっている人」という優しい目で見られたりするけれど、そんなフィルターのない厳し世界の目から見たら「やってない人」「サブカルチャーの人」になってしまうんだ。
そして、今もなお、自分はいかにしてメインのレールに飛び移るかを考えつづけているのである。自分はやっぱり、カンダタなのである。□