今日の一冊

 

古典部シリーズ4)「遠まわりする雛米澤穂信著 角川書店(7点)

 

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古典部シリーズ初の短編集。全7話。
どれも気軽に読める短編だが、それぞれにいろいろな切り口の物語で飽きさせない。ホータローをはじめとする古典部の面々のキャラクターの魅力も健在だ。
短編でありながら、それぞれしっかりと伏線も張られていて、短編ミステリとしても読み応えがあって、しっかり楽しい。

 


(以下、自分へのメモ。ネタバレしますので読んでいない方は注意)


1.やるべきことなら手短に
音楽室についての学校の七不思議を語っていたホータローと里志のもとに
丹田えるが現れ、問いかけようとするが、ホータローは学校にある「秘密倶楽部」の謎で上書きして、千丹田えるの謎は受け入れずに、秘密倶楽部の謎を解き明かした(昇降口の掲示版に自らはった告知でもって)。
ただ音楽室に行くのが面倒くさかったという理由で。


2.大罪を犯す
七つの大罪のうち、憤怒。をテーマとしたミステリー。
隣のクラスの授業で千丹田えるが数学教師に向かって怒っていた声が聞こえた。
まだ授業で説明していない問題を解けと迫り怒る数学教師。その不条理に怒りつつ、そもそもなぜ先生はクラスでの進捗を誤って解釈したか、をホータローが解き明かす。
先生は数学者ゆえに、Aクラス、Dクラスのように大文字ではなく、aクラスとdクラスとして教科書にメモしたため、勘違いしていたのであった。


3.正体見たり
伊原の親戚がやっている温泉旅館に合宿に出かけた古典部
その夜使われていないはずの本館の2階奥の部屋に幽霊の影を見た古典部員。ホータローが幽霊の正体を突き止める。
正体は温泉旅館の姉妹のうち、妹が姉の振袖をかってに着て汚してしまったものを洗って乾かしていたものを幽霊と見ていたからだった。


4.心当たりのあるものは。
放課後、学校放送で「駅前の巧文堂で買い物をしたこころあたりのあるものは職員室まで」の放送が流れた。
ホータローと千丹田えるの二人の対話だけで、この放送の意味を解き明かしていく。
短編ならではの珍しいストーリー構成。
結論は「贋金を使ったと思われる生徒の追跡」だった。


5.あきましておめでとう
初詣で納屋に外からカギをかけられ閉じ込められてしまったホータローと千丹田える。
なんとか誰にも気づかれずに脱出する方法を考える。
最終的には、巾着袋のお尻を紐で縛り「ふくろのねずみ」(信長の妹が信長に謀反を知らせるために使った手段)を表現して里志に届けることで二人は所在を知らせることが出来た。


6.手作りチョコレート事件
バレンタインに伊原が里志に作った手造りチョコレートが紛失した。
犯人は里志。こだわりを捨てた自分が伊原にこだわることを受け入れられず、チョコレートを破棄することで、恋を保留したことを説明。里志は自らの伊原への思いを踏み込んで語った。


7.遠まわりする雛
人が「生き雛人形」となって村を練り歩くお祭りに参加した千丹田えるとホータロー。
巡回コースとなっていた橋は、事前に工事の中止を連絡したつもりが何者かによって中止をキャンセルされていた。
犯人は茶髪。狂い咲きの桜と行列を一緒に写真に収めたくて雛たちを遠まわりさせたのだった。
丹田えるが将来を語る。理系を選び新しい豪農・千丹田家として商品開発をしていくことをカミングアウトした。
対し、ホータローは千丹田えるが選択しなかったもう一つ、文系を選び経営側を手伝うことを考える。だがホータローは千丹田えるにはそのことを伝えられなかった。二人の距離が少しずつ縮まり始めたことを感じさせる結末。

花火大会

花火大会にとんと行っていない。

東京湾晴海ふ頭の花火大会が開催されていたころは毎年必ず心待ちにして友人らと足を運んでいたものだ。
だが、ふと気付けば、以来久しく花火大会に行っていない。
毎年そこかしこで開催されていることは知っている。
行きたいという気持ちもある。
でも実際に足を向けようかどうしようか、なんて考えているうちに、気付けばいつも終わってしまっている。
花火大会は、美しい。巨大な花が夜空に開き、少しあとに遅れてどおんと空気をふるわせる。きれい!と思ってシャッターを切ってみてもほとんどまともに写ることはない。だから目に焼き付けようと、目を凝らす。
阿呆のように口を開けて2時間ばかり夜空を見上げる。「おおー」とか「ああー」とかそんな言葉しかでてこない。
花火大会は楽しい思い出である。

ではなぜここ最近とんと行けていないのか。
終わってしまった後のあのせつなさを引きずりながら家に帰るのが寂しいからかもしれない。
でも、それに加えて、全て受動的に受けるだけ、というのがひっかかるのかもしれない。
実は、花火問屋にでかけて手に入れるおもちゃ花火が好きなのである。
東西問わず、夏の人形問屋はほとんどが花火店に変貌する。それらの店を練り歩きながら花火を探すのである。それがまた楽しい。

例年アトリエの秋のスケッチ旅行がある。その旅の場で、僕自身が強く希望して可能な限り、ささやかな花火大会を企画している。
その買い出しに花火問屋に行くのである。
手持ち花火にも毎年いろいろな新作が登場している。
吹き出し花火にはあいかわらずドラゴンが人気だし、パラシュートが飛び出すような仕掛け花火も楽しい。
この買い出しにいく能動的な楽しみは規模の大きい花火大会にはない。
きっと僕が一番やりたいのは、おもちゃ花火を買い漁ることなのだろう。

今年も花火大会には行けなかった。
でもスケッチ旅行でのおもちゃ花火大会は実施するのである。

今年もまた花火問屋にでかけるのだろう。
そういう意味では僕の夏は秋に来るのかもしれない。□

ミーハー

かつて知人をお芝居に誘ったときのことである。

彼は言った。

「誰が出演しているの?」

小さな劇団の芝居である。
誰がと言ったところで初めての彼には役者たちのことは知る由もあるまい。

そう説明したら「じゃ、いいや」と断ってきた。

 

ミーハーという人がいる。

世の中がお墨付きを与えたものこそが、彼らにとっての価値なのである。
それ以外にはあまり興味は無く、価値として受け取らない。

確かに、多くの人の心をつかむものは、最大公約数的な価値や魅力を持っている。一見の価値はあるだろう。

だが、そんなものであっても自分にとってはしっくりこないものだってある。
価値や魅力はお墨付きを得たものだけにあるわけでもない。
多くには知られてはいないが、マイノリティだからこその価値や魅力をもつものはたくさんあるのである。それを単なるミーハー根性、食わず嫌いで受け入れないのは、あまりにも勿体ない。

美味い酒を飲みたい。というから居酒屋に連れて行ったら獺祭ばかりを飲んでいる輩もいる。彼はただ、テレビがすすめていたものを飲みたいのである。
美味い酒は獺祭だけではない。同じ山口でも五橋、東洋美人があるし、東北には、くどき上手、写楽もある。日本全国津々浦々素晴らしい銘酒は溢れているのである。

誰かが良いといっていたものも確かに良いのだろうけれど、何が良いか、何が好きか、自分だけのおこだわりというものはやっぱり自分で見つけたいものです。□

漫画家

「漫画家が来るぞ」

かつてアトリエの研究生に漫画家がいたという。
数年間アトリエに在籍していたが、結婚をきっかけに東京に引っ越して行ったらしい。
らしい。というのは、僕がアトリエに入門したときには、彼女は既にアトリエを去っていたので面識はなく、そんな人がかつていたという話を聞いていただけだったのである。
だが、その後、その漫画家が実家に帰省する際に、アトリエに遊びにくるという機会があって、アトリエメンバーら交えて飲みに行ったことがある。今から5年ほど前の事である。

僕もかつては漫画家に憧れていて、なんとか漫画家になれないものかな。なんて漠然と思っていた時期があるが、そんな漠然とした思いだけではなれるわけはない。
彼女に会って話してみると「ちょっと漫画がうまい人」なんてものじゃなくて、しっかりと収益を得ながら連載漫画を続けている「ほんとうの漫画家」だった。
「すごいですね」という僕の声は若干震えていたかもしれない。
実際に身近に、そんな存在がいると、ただどこか遠くの作家が描く作品を漠然と読むときにはなかった、尊敬やら羨望やら嫉妬やらがごちゃまぜになった複雑な気持ちを抱いたことを記憶している。

それから5年がたった今。
奇しくもまた漫画家と再会する機会があった。
毎年実家には戻って来てはいたそうだが、アトリエに顔を出す機会はなかなかとれず、結局気付けば5年という歳月が流れていたという。
漫画家としての活動はあいかわらず勢力的で、秋にはサイン会が実施されるとのことだったから、かなりの活躍ぶりであることがうかがえた。
ただ、必ずしもすべてが順風満帆というわけではないようだった。作家としての活動は充実しつつも、夫婦間、育児の問題などが深刻な状態でのしかかっていたようだった。
そこにいるのは「生きるために漫画という仕事をしている一人の人間」だった。
それは「生きるためにサラリーマンという仕事をしている一人の人間」となんら違いはなかったように感じた。
勿論、仕事を受けるお客様との距離や、仕事が一般人に見える範囲などの違いはあったかもしれないが。

かつての憧れや嫉妬のような気持は、もはやどこかに消えていた。
どんな仕事をしているかどうか、というより、それぞれが目の前にある仕事にどれだけ集中し、どれだけ楽しく過ごせているか。そこに関心をもっていたように思う。

いろいろなものを見て、考えて、迷って、直して、また迷って。
ずいぶん遠くまで来たような気持もあるが、まだどこにもたどりついていないのかもしれない。
ただ時間と共に辿りつきたい場所はみえてきたように思う。□

ファミコン通信 創刊号!

 

盆休みの帰省時に、実家にてファミ通創刊号が発掘された。

 

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創刊は1986年。

なつかしさで、体中を電撃が走る。

創刊当時は今のような「週刊」でも「ファミ通」でもなく、「2週間に1回」の「ファミコン通信」だった。

もともとは「月刊LOGIN」というパソコン雑誌内に開設された1つのコーナーだった。
インターネットが無い時代。
月一の、しかもたかだか2ページ程度の情報だけが、唯一のファミコンの情報源だったのである。
情報に飢え、からからに乾ききった気持ちで、毎月その2ページを楽しみに穴が開くほど読み込んでいた。

ある日学校から帰ってきた兄が「おどろくもの買ってきた。見せてやる」と鞄から取り出したのが「ファミコン通信(創刊号)」だった。
月一のわずか2ページでは情報が追いつかないほどにファミコンブームが広がっていた。その時代のファミっ子たちの(死後)熱い要望をうけ、ついにスピンオフが行われ、単独の雑誌として創刊されたのである。

まるごと1冊ファミコンの情報がつまった本。

しかも2週間に1回発行される。

このときの喜びといったら無かった。発掘されたファミコン通信の頁をめくるたびに当時の熱い気持ちが鮮明に蘇る。

繰り返しになるがインターネットも無かった時代なので、雑誌の記事の多くはゲーム攻略のための記事で埋められていた。
だが、ファミ通を支えた、また今も支え続けているのは、攻略記事以外の部分だったと思う。
読者の投稿やいろいろな切り口でゲームを語るコーナー、そして漫画等、その前後に登場した他のゲーム誌には全くなかった独自の切り口がファミコン通信にはあった。その魅力は今なお続いているファミ通の誌面が証明している。

雑誌は情報が古くなったら処分。というのが一般的かもしれないけれど、ファミコン通信創刊号の情報は、単なる攻略情報以上のノスタルジーをかもし出してくれるのである。
はぁ~、あの時代はよかったなあ........。□

今日の一冊

 

古典部シリーズ3)「クドリャフカの順番米澤穂信著 角川文庫(9点)

 

まるで巨匠のデッサンを眺めているかのような作品である。

全体を漠然と描きながらゆっくりと細部に入って行く展開。

おもしろい。

古典部文集の多くの在庫を抱え、漠然と始まる学園祭。
前半の展開は、主人公のホータローら古典部員がどうやって在庫を売りさばくかを悩みながら、ただなんとなく過ぎていくようなゆるさがあるが、むしろそれこそが楽しかった高校時代に絶妙にシンクロできる不思議な空気感を醸し出している。

ホータローら4人の古典部メンバーが学園祭期間中に展開されるクイズ大会や料理大会などのリア充的なイベントに参加していくなかで、ミステリーはゆっくりと動き出す。

学園祭で起こる謎の連続窃盗事件。

占い部のタロットカード。囲碁部の碁石。奇術部のキャンドル。料理部のおたま...。
アガサクリスティのABC殺人事件へのオマージュを匂わせながら、10の部活から10の品が順に盗まれていく。

絶妙に配置された個性的な古典部のメンバー、その他彼らを取り巻く仲間達の魅力。
細部まで描写された楽しい学園祭へのノスタルジー
ゆるさを感じさせつつも、対照的に深いキャラクターたちの哲学性やイデオロギー
そして、物語の骨格をなす十文字事件。

ミステリーとしての結末にはやや強引な印象もあったが、結末以上に、作品からにじみだす全体の温度や空気感が素晴らしい後味を残す。傑作である。□

 

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【メモ 以下、ネタバレ要注意】
漫画研究会の先輩・安心院鐸玻(あじむたくは)が描いた「夕べは骸に」。そしてその続編として企画されていた「クドリャフカの順番」。

作品を作り出した4名のメンバー。原作を残して転校した安城春菜、作画をした生徒会長・陸山宗芳(くがやまむねよし)、アシスタントの総務部長・田名部治朗。
どうしても陸山に続きを書いて欲しかった田名部は十文字事件を引き起こし、陸山に続きを描くよう信号を送っていた。