吉野とフィレンツェ

 

吉野の桜は有名だ。

 

なんてことを散々耳にしていたが、訪れたことがなかった。

というか、散々耳にしていたから、訪れなかったと言える。

春になれば美しい桜が山を覆い、それはそれは見事だと聞いた。

だが、それゆえに多くの観光客が殺到し大変な賑わいになると聞いていた。

紅葉で素晴らしい東福寺は20年ほど前までは静かに鑑賞ができた記憶があるが、その素晴らしさが年々口コミで伝わり、今となっては紅葉を見るのか、人ごみをみるのか、わからなくなってしまった。吉野の春もそんなものなのだろう、と長い間敬遠していたのである。

このたびの奈良の奥大和で開催された芸術祭MIND TRAILによって訪れる機会ができたのだが。

MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館

 

なぜもっと早くここを訪れなかったのか、と今更ショックを受けたのであった。

 

吉野駅に到着するや否や、駅前に並ぶ飲食店や土産物店の出迎えを受け、一気に観光気分を引き上げてくれる。

小さなロープウェイにのると、すぐに散策路のスタート地点に到着する。

華やかな仲見世のような道が奥まで続く。

やがて見えてくる吉野の金峯山寺のご本尊は、金剛蔵王権現像である。

奇しくも、今月の初めに訪れた国宝・投入堂のご本尊と同じく、役行者と大変ゆかりのある場所である。むしろ、この吉野こそが蔵王権現のメッカであった。

丁度特別御開帳となっていた金剛蔵王権現像は、5メートルをこえる巨大な3躯の御姿で、その大いなる存在感に圧倒される。

 

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金峯山寺 国宝 蔵王

 

金峯山寺を中心につづく飲食店や土産物店の間に、MIND TRAILのアートが仕込まれている。まるで宝探しか、オリエンテーリングのような気持でアートを探し、楽しむことができる。

アートを探す散策コースを奥へ奥へと進んでいくと次第に山道に差し掛かっていく。

道は舗装されているものの、なかなかの急な斜面が続き、話しながらのんびりというムードではない。足元を見ながら、ゆっくり、じっくりとコースを歩いていく。

 

やがて現れる絶景に息が止まる。

先ほど参拝をした金峯山寺を中心に、ここまでずっと歩いてきた吉野の街並みを俯瞰できる大変すばらしい景観が広がった。

 

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南朝時代に後醍醐天皇が移り住んだといわれる場所である。

金峯山寺が真ん中に置かれ、どっしりと町を支えながら、山々に囲まれた静けさや奥ゆかしさに、ちょっとしたもの悲しさも漂わせている。

春になればこの景観が、満開の桜で彩られるという。

例年多くの観光客が殺到する理由が今はじめてわかった気がした。

 

この吉野の景観が、ふと8年ほど前に訪れたイタリア・フィレンツェのフィエーゾレの景観と重なった。

ルネサンスの爆心地であるフィレンツェも、中心に花の聖母寺を置き、赤い屋根の美しい町並みが聖母寺を取り囲んでいる。

花の聖母寺は、観光パンフレットなどで観ていた以上にはるかに巨大で、まるでお釈迦様に見下ろされているかのような神々しい気持ちになり、思わず号泣してしまった記憶がある。

 

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フィレンツェ 花の聖母寺

 

そして、フィレンツェの中心からバスに乗り数十分、町を見下ろすフィエーゾレの丘に登ると、世界屈指の絶景が広がる。

 

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フィレンツェ フィエーゾレの丘

 

先ほどあれほどまでに巨大と感じていた花の聖母寺が本当に小さく見えた。

あのとき、1日中この景観を眺め、スケッチし、すべてのストレスを体中の毛穴から捨てだしてリフレッシュした記憶がある。

 

このたびのMIND TRAILは、日本の景観が世界につながっていること、自分の旅の記憶が多くのものにつながっていることを再確認できるすばらしい旅となった。□

引き受ける。

 

「君ばかり仕事をさせられているね」

 

この言葉には、

君へのねぎらいの意味もあるし、

仕事をさせた相手への非難もある。

更には、どうして君一人だけ仕事を

抱え込まされているのか、という

君への非難もあるかもしれない。

 

三者からはそう見えたのかもしれないけれど、

でも、事実とはいろいろ違うように思う。

 

どちらかというと、自分は仕事は遅いしミスも多い。

それでありながら、未だ自分への期待を捨てずに、仕事のチャンスを与えてくれる感謝の気持ちがある。

これまでの汚名返上のチャンスに応えたい、という気持ちがある。

そこに「させられている」という気持ちはない。

 

また、ある側面からは指示した相手が何もしていないように見えたのかもしれないが、他の仕事では、普段むしろ自分の方が散々尻ぬぐいをしてもらっていたりする。

要するに、こんなときにしか自分は借りを返せないのである。ここで返せなければもらいっぱなしとなってしまうのである。

 

本当に僕らは、やらされているばかりなのだろうか。

もらっていることの方が圧倒的に多いのではないか。

もらうことは当たり前だからすぐに忘れてしまいがちだ。

それなのに逆に返す時にはものすごい負荷を感じがちだ。

もらったときの有難さと同じ気持ちを、相手にもしっかりお返しできるようにしたい。

 

キャシャーンが(またキャシャーンですまん!)「自分はキャシャーンなんかになりたくはなかった」なんてぼやいていたらなんとも悲しいではないか。

誰もがうらやむ才能やスキルをもっているのならば、たくさんの期待や仕事が集まることに感謝をして、受け止めて、応えていけばいい。

それがやりたくてもできない人の方が断然多いのだから。そして逆にピンチになったときは、逆に助けてもらうことになるのだろうから。□

薦める。

 

ぜひ見てほしいテレビ番組を知人に薦めてみたが、

後日、観たか。と確認してみたら、彼奴、観てはいなかった。

ナニサ。せっかく素晴らしい番組を紹介したのに! 

と、軽い苛立ちを感じたりもしたのだけど。

逆に、彼が夢中になっているテレビ番組を薦められたとき、

 今度は、自分は見ていたかったりする。おたがいさまだ。

 

テレビ番組を見ることに限らず、人は持ち時間が限られている。

 

仕事をしていれば、定時後から眠るまでの数時間が貴重な「残された時間」だ。

この小さな時間に何をするかは、誰もがとても大切だ。

読みたい本をコツコツ読んでおきたいかもしれない。

じっくりフィットネスで体を鍛えておきたいかもしれない。

たまったドラマを一気に見ておきたいかもしれない。

それぞれが、たまる一方のやりたいことに序列をつけて、小さな時間を使って、少しでも解消を進めようとしているところに、他人が提案したものが、どこまで割り込めるというのか。ということだ。

 

思えば、こちらも、なかなかふてぶてしい提案を押し付けていたものである。

そんなものをまじめに受け入れてくれないという方が、ふつうなのかもしれない。

 

薦めていたのは「アイドルと巡る仏像の世界」という番組だった。

現役で活躍する可愛らしいアイドルたちが仏像という小難しい美術品を鑑賞するというギャップも面白いし、

仏像なんてわからないという人にとっても、テレビに映るアイドルも仏像をわからないと思っているから目線を合わせて楽しめるし、

そして当然のことながら、仏教や仏像の専門家によって作られているから内容にもしっかりとした教養がある。

テキストが欲しくなって書店に行ったのだが売り切れていて、ネットで取り寄せたのだが、先日本屋に行ったら再入荷したらしく山積みになってた。番組の放送は終わってしまっているというのに。

NHKのテキストが増刷されるのはあまり見たことがない。

きっとなかなかの高視聴率だったのではないだろうか。

やっぱり、みんなに見てほしかったなと思う。□

 

追伸:次なるお薦めは11/23 BSプレミアム の「運び屋」です。

★キャシャーン

 

働きアリの法則というのがある。

 

ウィキペディアをみるとこんな風に書いてある。

  • よく働くアリと、普通に働くアリと、サボるアリの割合は、2:6:2になる。
  • よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる。
  • サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。

 

誰もがこれを見て直観的に「人間も同じだな」と思うのではないか。

生き物には、共通して「依存する」という特性があるのかもしれない。

やらねばならない仕事があるとき、

誰かがやってくれるという環境であれば「じゃあお願いしよう」という姿勢になるし、自分しかできる人間がいないとなれば「では僕がやろう」という姿勢になる。

 

キャシャーンがやらねば誰がやる」

 

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これは、キャシャーンしかやれる人間がいないからの言葉であって、もしキャシャーン以外にできる奴、やってくれる奴がいたら、もしかしたらキャシャーンも、怠けるのではないだろうか....?

 

日々われわれが携わる仕事でも、知らず知らずのうちに無意識のうちに、誰かに寄りかかっているケースが多いのではないか。

そこには、確信的に「彼」にやりたくない仕事を押し付けて、自分は楽をしようと画策する人間もいるだろうし、または、本当は働きたいのだが、自分よりも、もっと優秀でモチベーションの高い「彼」がいて、ぐいぐいと先に進めてくれる(進めてしまう)から、引き下がるしかない。という人間もいるだろう。

だが、ある日突然「彼」が異動になったり、急病にかかったりする等で長期不在となったとき、これまで「彼」の陰に隠れていた自分が突然、矢面に立つことになる。その時初めて僕らは「キャシャーン」になるのである。

それまではとても面倒くさいとか、とてもできない。と思い込んでいたことに、嘘のように没頭し、取り組んでいく自分の姿に驚いたりする。

 

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自らの存在意義や、仕事の大義名分が手に入ったとき、これまで前に出ようともしなかった自分、出るにも出られなかった自分が、ぐいと前に飛び出す。

実はそれこそが、「生きがい」の正体なのなのではないか、と思う。

 

やっぱり、キャシャーンは、誰か代わりになってやってくれる奴が現れたとしても「それでもキャシャーンがやる」と言うのではないか。

働きアリの中にいながら、それでもやっぱり働きアリでいられる存在が、社長であったり、組織を前に引っ張っていく存在なのではないか。

キャシャーンがいて、キャシャーンになれない人がいて、キャシャーンになろうともしない人がいる。でも、ここに、正しいとか悪いというのは無いように思います。

 2:6:2は神様が作った生き物への規定なのではないかと思うのです。

誰もが、誰かに求められたい。誰かの声に応えたい。自分の力を活かしたい。と思っている。ただ、それが何らかのフィルタによって、抑えられてしまっているだけなのではないか。今、本当に「あなたしかいない」と求められたとき、キャシャーンになれる素質は誰にでもあるのだと思うのです。
もちろん、自分自身の不断の努力によって、自分がどこにいるかを決めなくてはいけないこともあるかもしれないけど、それよりもっと大きな意思によって、人はいる場所を決められているとも思うのです。
 

おそらく今日、僕はキャシャーンから庶民に戻る。

 

それでも、できることを精一杯やる。

結局、それしかないのだと思います。

そして、それでいいのだと思います。□

今日の一冊

 

十角館の殺人 新装改訂版」 綾辻行人著 講談社文庫

 

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おもしろい。

とても読みやすく、本格ミステリの世界にどっぷりとつかれる。

真相にも驚愕して、トリックもとても明快。

アガサ・クリスティのもつミステリのすばらしさを思い出させてくれるような、純和製ミステリだ。

このような本こそが、最も理想的な本格推理小説だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(以下、ネタバレ含めた自分へのメモ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」をイメージさせる本作だが、本土と島の物語が同時に進むところや、島においても、十角館の建設者・中村青司の四重猟奇殺人事件が重なり、物語の層がとても厚く、楽しい。

・プロローグの犯人の独白で海に投げ捨てられた真相が書かれた紙の入った瓶が、エピローグでしっかりとつながる美しさ。

・新装版での、401ページから402ページにページをめくらせたときに目に飛び込む真相。すべての概ねの答えが、たった1行で解消する美しさ。そして衝撃。

・読み始めてすぐ、学生時代に読んだことがあることを思い出したが、「犯人は島にはいなくて、本土の方にいるんだよ」といった、そんな漠然とした記憶だけがあったのだけど、島にいるメンバー=ヴァン・ダインが犯人であると知ったとき、度肝を抜かれてしまった。
島と本土の遠隔地にいる二人が同一人物だなんて、全く考えも及ばなかったのである。本当に、気持ちよくだまされた。やっぱりミステリって最高だ(なかなかこんな気分にさせてもらえる名著には出会えないのだが)。□