働きアリの法則というのがある。
ウィキペディアをみるとこんな風に書いてある。
- よく働くアリと、普通に働くアリと、サボるアリの割合は、2:6:2になる。
- よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる。
- サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。
誰もがこれを見て直観的に「人間も同じだな」と思うのではないか。
生き物には、共通して「依存する」という特性があるのかもしれない。
やらねばならない仕事があるとき、
誰かがやってくれるという環境であれば「じゃあお願いしよう」という姿勢になるし、自分しかできる人間がいないとなれば「では僕がやろう」という姿勢になる。
「キャシャーンがやらねば誰がやる」
これは、キャシャーンしかやれる人間がいないからの言葉であって、もしキャシャーン以外にできる奴、やってくれる奴がいたら、もしかしたらキャシャーンも、怠けるのではないだろうか....?
日々われわれが携わる仕事でも、知らず知らずのうちに無意識のうちに、誰かに寄りかかっているケースが多いのではないか。
そこには、確信的に「彼」にやりたくない仕事を押し付けて、自分は楽をしようと画策する人間もいるだろうし、または、本当は働きたいのだが、自分よりも、もっと優秀でモチベーションの高い「彼」がいて、ぐいぐいと先に進めてくれる(進めてしまう)から、引き下がるしかない。という人間もいるだろう。
だが、ある日突然「彼」が異動になったり、急病にかかったりする等で長期不在となったとき、これまで「彼」の陰に隠れていた自分が突然、矢面に立つことになる。その時初めて僕らは「キャシャーン」になるのである。
それまではとても面倒くさいとか、とてもできない。と思い込んでいたことに、嘘のように没頭し、取り組んでいく自分の姿に驚いたりする。
自らの存在意義や、仕事の大義名分が手に入ったとき、これまで前に出ようともしなかった自分、出るにも出られなかった自分が、ぐいと前に飛び出す。
実はそれこそが、「生きがい」の正体なのなのではないか、と思う。
やっぱり、キャシャーンは、誰か代わりになってやってくれる奴が現れたとしても「それでもキャシャーンがやる」と言うのではないか。
働きアリの中にいながら、それでもやっぱり働きアリでいられる存在が、社長であったり、組織を前に引っ張っていく存在なのではないか。
キャシャーンがいて、キャシャーンになれない人がいて、キャシャーンになろうともしない人がいる。でも、ここに、正しいとか悪いというのは無いように思います。
2:6:2は神様が作った生き物への規定なのではないかと思うのです。
誰もが、誰かに求められたい。誰かの声に応えたい。自分の力を活かしたい。と思っている。ただ、それが何らかのフィルタによって、抑えられてしまっているだけなのではないか。今、本当に「あなたしかいない」と求められたとき、キャシャーンになれる素質は誰にでもあるのだと思うのです。
もちろん、自分自身の不断の努力によって、自分がどこにいるかを決めなくてはいけないこともあるかもしれないけど、それよりもっと大きな意思によって、人はいる場所を決められているとも思うのです。
おそらく今日、僕はキャシャーンから庶民に戻る。
それでも、できることを精一杯やる。
結局、それしかないのだと思います。
そして、それでいいのだと思います。□