僕らは結局、なにも分かっちゃいない。

「なんでそんなことも知らなかったんだ!」


と咎められ落ち込んだりすることがある。


相手は俺がそんなことはとうに承知だったと信じ込んでいたのである。


だが、こちとら知っているどころか、そんなことまったくの寝耳に水だったということが多い。


咎められるたび、なんで知らなかったんだろう。俺はいままで何をしていたのだろう。と自分自身の至らなさに自虐的な気持ちになり激しく落ち込んできた。だが、その気持ちはまたいつか再来する。この繰り返しである。


だが、今日はふと「じゃあそういうお前は一体何を知っているというのか」と問い返したくなった。


俺が分かったと思っている内容と、相手が分かったと思っている内容は、そもそも決してイコールなどには、なり得ないのではないか?


「知っている。わかった。」といってもただ、その言葉づらを聞いたことがあるだけかもしれない。あるいは、そのメカニズムの奥深くまで理解しているのかもしれない。


聞き手は、そこに「これくらいは知っているだろう。知っていてほしい」という自分の希望的観測やら勝手な指標を当てはめる。そこに誤解の源が発生する。


本人を目の前にして語っている矢先で、もう誤解は生まれているのである。


そんなものに対して「なんでそんなことも知らなかったんだ」はないだろう。


俺たちは結局いつも相手を理解なんか出来ていない。誤解こそが、むしろ「常」である。


それならば、誤解を咎めている方がおかしいのである。何も落ち込むことなんかない。


俺も、君も、実は何もわかっていない。


ゆえに「僕は知っている、君は知らない」という語りかけは決してうまくいかない。


「僕らは結局、何も分かっちゃいない」という素直さでお互いに対峙したい。□