誰が最後に笑ったか

 

絵画の話は、静かに黙って聞いていた人が、

スポーツの話になると、突然刺してくる。

 

絵画のことはよくわからん。だからそこはお前に譲る。

だけどスポーツのことは俺の専門。にわかには譲らねえ。

....ということなのだろうか。

大谷選手の活躍を話していて、栗山監督に日本ハムに引き留められて今があるのかもしれないね。というような話をしたら「違う!」と突然差し込んできた。

 

同じような話は他にもあって、和歌山の旅の話になったとき、南の方に行くのなら、熊野大社まで行きたいね。というような話をしてみたら「違う!」と、刺された。
熊野大社はそっちの方じゃない云々。どうしてもその間違いをただしたいようだ。

 

どっちでもいいじゃないか、そんなことは。

......と思ったりするのだが、彼らは専門家である。

にわかが語る中途半端を、決して許さない。

 

ふと思ったのだが、

彼らはいつから「専門家」になったのだろう。

確かに、にわかである自分に比べたら彼らは知っているのだろう。

だけど、もしここにプロの記者や旅行者がいたら、今度は彼らがにわかになる。

突き詰めていくと、専門家なんてのは、この世に存在しえないのではないか?

みんな、ほんとうのことは何も知らない。

どこかに中途半端なうろ覚えや、また聞きや、勘違いが入っている中で会話を楽しんでいる。それでいいのではないか。

それでも彼らが「違う」と差し込みたくなるのは、おそらく「支配したい」という欲求があるからなのではないか。

そして、この「支配欲」というものが、曲者で、世にある諍いの多くの根源は全てこれが原因なのではないかと思うのである。

 

対して、そのような様をずっと黙ってみている人がいる。

「僕は何も知らない」

こちらが教えてください、という問いを投げてみても、そして実際に知っていても、彼は、引き下がる。

彼には支配欲が無い。その時に、支配欲に溢れる人々は、彼を中庸なものと受け入れ安堵を隠し、軽くあしらって次の獲物を探しに行くのだ。

 

最後の最後に生き残るのは、支配欲のバトルロワイアルをリングの外から見ている彼なのではないかと思うのである。

 

最後に笑うのは、支配欲の外にいる人間なのではないか、と思うのである。□