金毘羅さんを訪れた。
訪れたのは3度目だった。
その日同行していたメンバーは誰もが初めてだったから、
経験者である自分が、前回おとずれたときの印象を交えて、
歴史とか見所を紹介するつもりでいたのだが。
・・・・・・・何一つ説明ができなかった。のである。
ただ「来たことがある」というステータスだけで、
自分の中には、人に伝えられる有意義な情報など、
何もなかったのである。
第三者に何かを伝えたいのであれば、
伝えるための準備をしなくてはいけない。
どこがすごいのか。
みどころはなにか。
どういう歴史があるのか。
.....なんてことを、調べ、知識として蓄え、
適切な言葉で説明できなくてはいけない。
それが「ガイド」という仕事である。
その日、自分は「ガイド」たる準備を全くしていなかった。
世間でいう「知ったかをする」というのは、一度見たり経験したことや、にわかで手に入れた情報だけで、全てを知ったような気持になり、偉そうに説明をして、自らを高くみせようとする行為である。
逆に、知ったかをするつもりは全くなかったとしても、にわかの状態で人に説明をすれば、それは結果として知ったかをしているように見えてしまう。
にわかは、中途半端に説明などせず、ただ黙っているのがよい。
対し、主観を人に正しく伝えたいのなら、
例えば自分が感動した。ということであれば、
第三者にも、限りなく同じように感動できるように伝えたい。
自分にとっては絵画という手段になる。
自分の感動を、人に正しく伝えるにはどのような形や色を使えばよいかを、考え抜いて、表現する。
ただ「すごいすごい」と言っているだけでは、相手には感動は伝わりはしない。
相手に伝えたいのであれば、伝わるようにするために、多くのことを準備して説明をしなくてはいけないのである。
これまでを振り返ると、伝えたいと思っていたことの多くも、ほとんど「すごいすごい」と主観を叫んでいるだけで、人には何も伝わっていなかった、ということに、金毘羅さんの旅で奇しくも気づいてしまったのである。
まず、「伝えたいのか」。
そして、「伝えたい」のであれば、、
正しく伝わるように準備・工夫をしたい。
伝え方を、しっかり考え直したい。□
追伸:
しかし、よくよく考えてみると、自分は、別にガイドになりたいわけではなかった。
自分が知っていることなど高がしているし、何か人のためになる情報を押し付けることに生きがいを感じたりはしない。
目の前に現れた感動に、ひとりでわーいわーいと言っているだけで幸せなのである。