思い込みで生きられた時代

 

思い込みで生きられた時代というのは、

言い換えれば、

自分のランキングが見えなかった時代。ともいえる。

 

ファミコンの「チャンピオンシップロードランナー」を夢中でやっていた。

クリアしたら、世界で唯一の番号がうちこまれた記念の認定証がもらえた。

その番号は、日本全国でクリアした順番につけられるランキング番号だった。

 

「俺、もしかしたら1位かも」

 

インターネットもない時代。クリアするヒントもどこにもない中、朝から晩までチャンピオンシップロードランナーに没頭してようやくクリアした。

届いた認定証には、10万だの20万だのとんでもない桁の数字がうちこまれていて、世界の広さを知った。

でも、その自分の小ささに気づかず「俺、もしかしたら1位かも」と思い込んでいられた時間は楽しかったし、絶対的に幸せだった。

 

A先生とF先生が月刊漫画少年に毎月、漫画を応募して、1か月先の発表を首を伸ばして結果を待つ時間。「俺たちの漫画って、どれくらいなんだろう」

そして「この小野寺章太郎ってやつ、すげえよなあ」と毎号入賞する強敵に思いを馳せる。

見えない自分たちの「ランキング」を、長い時間と数少ない情報の中で見極めていく緊張感と躍動感が名作「まんが道」に描かれている。彼らは、間違いなく、燃えていた。

 

一人暮らしをするときにマンションを案内してくれた不動産会社の若手社員が漏らした。

「俺、来月にもこの仕事はやめます。とりあえず東京行きたいので」

目的などない。

とりあえず、東京にいったらなにかがおこるんじゃないか。東京に行ったら、俺はきっと何者かになれる。

ものすごい思い込みだと思ったけど、そこに彼を動かす大きなエネルギーを感じた。

バガボンド」で吉岡道場に殴り込みをかけた宮本武蔵もそうだったのかもしれない。

 

みんな「真夜中のカーボーイ」なのかもしれない。

 

でも、その「俺ってすごいかも」という思い込みと、見えない自分を確かめに行こうとする大いなるエネルギーこそに、人間が生きるということのエッセンスを感じるのです。

思い込みで生きられるってのは人間として本当に素敵なことだ。

 

でも今の時代って、動く前に全部ネットで結果が出てしまうしように思う。

令和の小野寺章太郎くんは、秒単位で発表される作品の中に埋もれちゃうかもしれないし、不動産会社の九州男児は、東京に行っても何もないことが事前にわかっちゃったりするかもしれない。令和の宮本武蔵は京都に行かなくても、自分の剣のランキングがわかっちゃうかもしれない。

やるまえからわかっちゃう。だから思い込みもできない。時代が思い込みを邪魔している。

今の若い人達は、それが当たり前だから、時代が思い込みを邪魔しているとは感じていないかもしれない。

「さあ、これから俺の力、出しちゃおうかな」って思った刹那、「あなたのランキングはXXX位です」なんて言われちゃったら、これからどうやってがんばっていったらいいのか、自分にはわからない。絶望するかもしれない。

 

数年前に自分を追い込んだ鬱の根源は、全てそんな「思い込みの喪失」の端境期にあったことだと思っている。

それまでは、きっと、思い込んで生きていたのだと思う。

でもそれがただの思い込みだったことが、ある日突然見えちゃった。

そこに、はげしく落ち込んだり、戸惑ったりしたのだろうと思う。

 

今の時代には、今の時代に合った新しい思い込みの仕方があるのかもしれない。

かつての思い込みを許さない今、どんな生き方をしているのか、若い人に聞いてみたい。

 

少なくとも自分には、現代は、息苦しくて押しつけがましい世の中だと思っている。□