少し前に、京都大原三千院を訪れた。
国宝・阿弥陀三尊像の神々しいお姿や、
これでもかといわんばかりに萌える苔の
美しさに、打ち震えた。
前回父と母と訪れてから10年ほどになるが、
そのときの記憶はほとんどない。
こんなに素晴らしく美しいものがあったとは。
あのとき僕は、一体何を見ていたのだろうか。
........................多分、何も見ていなかった。
唯唯、表層的なものを眺め「わーい、わーい」と
騒いで喜ぶだけで実際は、何一つその国宝の深さや
価値を味わうことなどできては居なかったのである。
10年の歳月を経て、社会で多くの経験を経た自分が
かつて見た国宝に改めて訪れた時、それはまるで
この10年を映す鏡であるかのように今の自分を
照らし出したのだった。
国宝とは、今現在の自分自身の深みを測るひとつの
指標であり、鏡のようなものなのだろう。
10年前の僕は何も見てはいなかった。
だがあのときの僕はあのときの僕なりの今で、国宝を
見ようとしていたのである。
たとえ見方が浅く薄かったとしても、あたかもペンキの
重ね塗りのように、その時に見たことがしっかり下に
敷かれていたからこそ、今その上に重ね塗りができた、
新しい見方が発見できたのである。
今おとずれよう。
そしてその場所に10年後もう一度行ってみよう。
そのときにそれはまた新しい見え方、新しい鏡となって、
まるで別物のように今の自分の姿を映し出してくれる。
いつどんなときにいっても新しい表情を見せてくれる。
この深さこそが国宝と呼ばれるものの強さなのだろう。□