広隆寺を訪れた。
これまでにも京都、奈良で多くの国宝、重文の仏像を拝観してきたが、この広隆寺だけがどういうわけか、ぽっかりと抜け落ちていて訪れることができずにいた。
この夏一番の暑さといっても過言ではない猛暑の日だった。
別にそんな日を選んでいかなくても良かったのでは、と今になっては思うが、どういうわけか、行くと決めてしまうと、これまで散々に先延ばししてきたことも、どうしても今日やらなくてはならない。という強迫観念となって、猛暑だろうがなんだろうが、ブレーキが利かなくなってしまう。
コロナと猛暑に挟まれて心配していたが、霊宝館はしっかりと開放されていた。
弥勒菩薩以外にも、館内はぐるりと国宝、重文が集められていて見ごたえがある。
だいぶ暗いことと、ご本尊までちょっと距離があり、細部が観られないことが残念ではあったが、国立博物館のように、入れたり出したり、みられるかどうかはタイミング次第。のようなことがないので、その点は安心だ。
大変見事な仏像である。
「それは地上に於けるすべての時間的なもの、
束縛を超えて達し得た人間の存在の最も円満な、
最も永遠な姿のシンボルであると思います。
私は今まで何十年かの哲学者としての生涯の中で、
これほど人間実存の本当の平和な姿を具現した芸術品を見たことは、
未だ嘗てありませんでした。
この仏像は我々人間の持つ心の永遠の平和の理想を真に
余すところなく最高度に表徴しているものです。」
ドイツの哲学者カール・ヤスパースも絶賛しまくってます。
教科書に載っていたり、切手にもなっていることでも、誰もが一度はどこかでみたことがあるでしょう。
が。
その国宝第一号の弥勒菩薩の横に、実は、もう一つの国宝の弥勒菩薩があるのです。
泣き弥勒。といわれているようです。
国宝第一号もすばらしいけれど、僕は、こちらの泣き弥勒に、すっかりやられてしまったのでした。
完璧でありたいと願い、日々努力し邁進している人にとって、未だ見たことのない完璧の象徴としての国宝第一号は確かに素晴らしい。
まさに完ぺきとはこれだ。非の打ち所がない。
カール・ヤスパースが探し求めていた完璧が、国宝第一号には具現化されていたかと思います。
だけど、ぼくには、泣き弥勒の御姿にしびれたのです。
完璧でありたいけれど、どこかで大きな挫折があって、くやんだり、悩んだり、時には涙を出しながら、生きていく姿を象徴したかのような泣き弥勒が、不完全であった、負け犬であったというコンプレックスを抱え続けている自分にピッタリとシンクロナイズされて、そんな許せない自分を、許してもらえたような気持になったのです。
「お前も悲しかろう。俺も悲しいのだ」
そんなふうな声が、泣き弥勒様から聞こえてきたような気がしたのでした。
これまでは、祈りの対象としての仏像本来の目的よりも、美術品としてのすばらしさをずっと見てきた感じがしていますが、この泣き弥勒には、はっきりとした祈りを感じました。
たいへんすばらしい参拝となりました。霊宝館は天然のサウナでしたが......。□