2022の同窓会イヴ その1 

 

同窓会の案内が来た。

 

インターネットの時代だ。
SNSやらLINEをたどれば、概ね誰もが見つかって、つながることができる。
かつては消息不明となって探しようもなかった人探しに悩む幹事も、この時代ならば少しは減ってきたのではないか。もちろん取りまとめする幹事の気苦労は、いつの時代になっても絶えないとは思うが、、。

そもそも、こういう企画って誰がどういうきっかけで始めるのだろうか。

まずそんなことを想う。
数十年に及ぶ交友の断絶、止まった時間を、ふたたび動かそうと思うのは誰なのか。
仮に自分が「同窓会したい」と思ったところで、どこから手を付けたらいいかわからない。
誰か一緒に動いてくれる人間がいなくては実現しまい。だが、身近にいる数少ない級友たちに連絡を取ってお願いしてみたところで、彼らに火をつけることが、まず難しいのではないか。そこから人探しが始まり、企画が始まり、根回しが始まる。
ますます幹事の気苦労を思ってしまう。
そしてそうしてでもやりたいという使命感の強さに感服するのだ。

 

斉藤和義じゃないけど当時のマドンナは今も綺麗だろうか。

次にそんなことを想う。
ちらりちらりとLINEに登場する仲間たちの声に、一瞬にして当時のノスタルジーに引き戻されながらも、断絶していた長い時間による変化が断片的に脳裏に刺さり、見たい反面、見てはいけない。というような、パンドラの函を開けるような気持になる。

LINEをトリガーにして、当時のことが次々と脳裏を駆け巡る。
ひとことでまとめると、ほとんど先生たちに叱られた記憶しかない。
我が学生時代は、ほとんど叱られて終わったのではないか。
いろいろ思いを巡らしているうちに、数時間が過ぎている。
もうこれだけで充分なのでは、という気持ちにもなる。
それでも、お互いの物理的な変化を確かめに行く必要はあるのか?と、冷たい気持ちになる。
お互いの変化が、いい変化であれば、来てよかった。になるだろうが、悪い変化であれば、来ない方がよかった。になる。
願わくば、全てが「良かった」で終わってほしいが、そうも行かない気もしている。
でもこの機会を逃したら、もう一生会わずにに終わってしまう気もする。それを捨ててしまうのか。

そんな葛藤が延々と繰り返されている。

 

会は少し先。もう少し、もやもやこの時間を楽しんでみる。□