人生で「接点がない人」がいる。
たとえば、ルパン三世とか、こち亀の両さん。
少年のころ、テレビや漫画で彼らを観ていたときは、
「かなり年上のおじさん、お兄さん」
...と思って観ていたのだが、
今、かなりの歳を重ねて改めて観ても、
「彼らは年下なのか?年上なのか?」がわからない。
とっくに、彼らの年齢は超えているように思うのだが、
いつ、彼らを超えたのかもわからないし、まだ超えたような気もしない。
自分の人生を一本線で示したとき、彼らはこの線上に決して現れない人、
つまり「接点がない人」ということになるのである。
自分が幼いころ父がよく聞いていた大川栄策の「さざんかの宿」という曲を聞いていて、またも思ったのだ。
「この曲に登場する男女はいったい何歳なのだ?」と。
愛しても愛しても人の妻。咲いて寂しいさざんかの宿。
つまるところ、不倫の歌なのだが、自分の人生の線の上に見える不倫はこんな「粋」なものではない。もっと下半身の欲望にストレートで、それを報道するマスメディアとの戦もなかなか下世話で生々しい。
演歌に登場する男女も、自分の人生には「接点がない人」である。
さらに、最近「婦人画報」という雑誌をよく眺めている。
美的センスにあふれた大変素晴らしい紙面で、幾多ある雑誌の中でも相当優れたものであると確信している。
女性誌だからといって見ないのがもったいない。毎号じっくり読ませてもらっているのだが、「この雑誌を購読する女性像」もまた、自分の人生で接点が無い人。のように思う。
読んでいる人はたくさんいるのだろう。だけど、この雑誌の中に登場する記事やモデルたち、この雑誌がうたう「婦人」という存在は、自分の人生の線上にのってこないように思えてしまう。
まとめてみると、この「接点がない人」は「洗練された究極世界の住人たち」ということなのだろうか。
宝塚歌劇で歌い踊るタカラジェンヌたちは「接点のない人」を目指して作り上げられた存在なのかもしれない。
ぼくらはそういう世界、自分たちが今立っている線の外にある世界、に生きてみたいと思い続けているのかもしれない。
そしてそんな世界をかりそめにでも味わうために、漫画や雑誌、お芝居があるのかもしれない。□