「若者」からの卒業

 

「気持ちさえ若ければ人はずっと若い。歳は関係ない。」

 

なんて言われることがあるけど、本当にそうだろうか。

歳が全く関係無いとは言いきれない。
歳を取れば体も動かなくなるし、死にますし。そこを気持ちでカバーしたとしても、自分は明らかに変わってきている。それを最近とても感じる。

 

今思うと、

若者は、ただ若いというだけで、それだけで価値なのである。

社会に貢献するとか、何かを生み出すとか、そんなことをしようがしまいが、もう、ただ居る。だけで価値なのである。
社会に届け出なんてしなくていい、最初から価値として取り扱うように世界ができている。そして、それは時間が経って歳をとると自動で引きはがされて、次の若者に引き渡されるのである。
それは目に見えないシステムによって勝手に行われているのだけど、社会からの声のかかりかたや、歳下からの視線などで、それがもう終わったのだと直感するのである。

若者は自覚もなく、そんな価値をヴェールのようにかぶせられ、社会からご本尊のような視線を受け生きる。
若者は無意識にそれを受容し、これから何かをしでかすというマニフェストを毛穴から宣言している。社会はそれを勝手に期待する。

 

年配は、ただ長い時間を生きたというだけで、それまでの価値を求められる。

昨日まであったような気がしていた価値のヴェールはいつのまにかなくなっている。
そして社会からはさあ、成果を見せてください。とこれまで寛容に見過ごしてくれていた時間への対価を求められるのである。対価など何も持っていなくても、あることが当たり前のような視線を受け続けるのである。
残された時間で終えられないような大仕事や、自分が無しえなかったもろもろを、若い人に頼もう、譲ろう、任せようと覚悟する。

 

追い詰められ始めている。刻一刻と、確実に。

終わっていない夏休みの宿題のように、これからでも、なにかをしでかして逆転ホームランを打たなくてはいけない、と思い始めている。□